「制限」から生まれる「自由」

こんにちは、ランマニアです。

最近ランでもそれ以外でも、ちょっと思うことがあってこんなことを考える機会が多かったのですね。

欲しいものややりたいことが無制限に与えられた状態では、確かに全てが手に入るので何でもできるし苦労しないわけで。

この極端な例はお金で、お金が無制限に手に入ればもう一生働かずに済みますし(憲法では労働の義務が規定されているのでそうもいきませんが)、お金をいくらでも投じて様々な自由が手に入るのですね。

しかし最近、こうした無制限に与えられるものから得られる「自由」というのは本当に「自由」なのかな、と思うことがあります。

こういう「自由」は「一見」自由なだけではないだろうか、と。

「無制限」というのは別の見方をすると「全てを与えられる」という意味にも捉えることができ、それは「受動的」とも言え、「自ら獲得する」能動性とは対照的な状態だと考えるのですね。

例えば、何らかの制限があり、これは手に入らない、これは利用できない、というものがあったとき人はどうするかというと、なんとかしてそれに代わるものを探したり、あるいは自分で考えてそれと同じ役目を持つものを創造したりすると思います。

私たち市民ランナーが最もそれを感じる瞬間は、やはり「いつ練習するか」という練習時間のことを考える時だと思います。

もし、お金が無制限にあり、毎日走るだけの生活ができたとすれば(いや世の中にはそういう方々もおられるとは思いますが)、いつでもどこでも何度でも走ることができると思いますが、残念ながら我々多くの一般市民ランナーはほとんどフルタイムで働いていて、かつ通勤時間や残業時間に時間を取られて走る時間はかなり限られてきてしまっていると思います。

しかし、そんな「制限」の塊のような生活をしている中でも、多くの市民ランナーは恐ろしくレベルの高い練習を積んで(これは距離が多い、というだけではなく)、そして年齢に不相応な自己ベストをかなりの頻度で連発しているのですね。

これは何なんだろうと思うわけです。

これはランマニア自身を振り返りながら考えてみるのですが、やはり「制限」の中から生まれる「自由な」発想にほかならないのではないかと思うのです。

例えばインターバルの時間が朝も夜も確保できない、なんていうことがあったとすると、もうやるには昼休みしかない、という状況、つまりは最大級の「制限」が訪れたとします。

こうした時に、その人の仕事の状態やライフスタイルにもよるとは思いますが、同じ負荷をかけるにはどうしたらいいか様々なことを考えると思うのですね。

ランマニアが思いつくだけでも、

・昼休みのわずかな時間にアップ短めにして一本のスピードを極力高め、インターバル短めで本数少なめ、という超高強度インターバルに変更

・帰宅に電車を使うのをやめ、信号ごとに全力ダッシュとジョグを繰り返す

・職場がビルなら上下の移動を全て階段を使い全力で駆け上る

など、学生時代に練習するための時間(部活動)が確保されていた時には想像もできなかった練習方法を考えつくわけです。

こういう「自由な」発想は、「無制限」の状態ではなかなか思いつくことはなく、「制限があるからこその自由」とも言えるのではないかと思うのですね。

そんなことから、ランにせよ何かの趣味にせよ日常生活にせよ、それらに何らかの「制限」がある状態を、最近は意図的に作り出してそれを楽しもうと考えています。

Twitterで多くの市民ランナーの方の練習を見ていると「本当に仕事をしているのか?」と思えるほどものすごい練習やハードなトレーニングを長期間にわたって継続している方々何人もいます。

きっと、こういう方達は毎日の生活の中で常に自分で練習時間を捻出する工夫をしたり、練習内容を自ら創造したりして強くなる工夫を「自由に」行っているのだろうな、と想像します。

「どうしたら強くなるか」ということを考えた時に、「どんなメニューを行えばいいか」を考える楽しさに加え、「どんな工夫をして練習時間を確保するか」といった、練習内容を自由に創造する楽しさというのも最近はあるように思います。

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