どうしたら箱根を走れたか

こんにちは,ランマニアです。

新年あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。

さて,今年のお正月は久しぶりに箱根駅伝を割とちゃんと見て,青山学院大学の驚異的な走りに興奮していました。

箱根駅伝マニアではないランマニアでも,ここまでの3大駅伝を連覇していて,10000mのベストタイム27分台の選手が3人もいる駒澤大学のアドバンテージはそうそう揺るがないだろうと思っていた中での,圧倒的勝利。

1区,駒澤大学がトップで襷をリレーした際には「ああ,これでもう駒澤の独走優勝確定だわ」と呟いてしまったほどです。

かつてランマニア自身も箱根駅伝を本気で目指していたこともあり,自分にとっても人ごとではない駅伝ではあったのですが,ここ数年はようやくその想いも徐々に薄くなってきて,そろそろ「箱根走りたかったな」気分からも卒業かな,と思い始めていた中で,久々に勝負に引き込まれた箱根駅伝となったのですね。

そんな中,先ほどあるツイート(今はポストですか)が目に留まり,「そうそう,そうなんだよ。それはずっと考えてたんだよ」と共感しかない内容が書かれていて,思わずこんなタイトルのブログを書きたくなってしまいました。

そうなんです。「自分も走りたかったぁ」「でも,どうにもならなかった」

これ本当に,大学を卒業してからずっと思い続けてきた心境で,やっぱり一生続いちゃうのかなぁ,と。

では,自分自身の場合,どうしていれば箱根に出られたのか。

これについても,ちょうど先日も同じことを考えていたところで,うちでも話していたところだったのですが,一応自分の中ではある結論には到達していまして。

ランマニアは,中学,高校と長距離一筋で部活に取り組んでいて,過去のブログでも紹介ましたが,特に高校時代は自分自身が長距離に対してその後の競技人生を決めたと言っても過言ではないほどの重要な3年間を過ごしました。

当然,それまではなんとなくイメージしていた「箱根駅伝」というものに対して,ある程度具体的に「目標」として意識できる程度にはなっていたのがこの頃です。

もっというと,もう走ることを一生続けていきたいし,なんならそれに関連した仕事に就きたいとも思い始めたのもこの高校時代だったのですね。

しかし,そうした目標があったものの,当時のランマニアはあまりにも陸上が楽しすぎて,もう生活全てを陸上に捧げてしまっていて,将来の進路や陸上以外のことについては何も考えずに毎日走り続けていた状態でした。

もう走ることだけをして生きていきたい。それができるのは今しかない。

みたいなことを,当時考えていたのを思い出します。

なので,多くの長距離に取り組んでいる高校生と同様,3年生でも11月の高校駅伝の県予選までは部活を続け,そこから受験勉強を始める,というスタイルをランマニア自身も採ることになります。

当時もセンター試験は1月中旬。私立大の試験も2月上旬ということもあり,受験勉強を一切していなかったランマニアにとっては,約2ヶ月ちょっとで大学入試を迎えなければならないという,圧倒的に無謀な挑戦を強いられることになります。

もちろん,それは織り込み済みで競技を続けましたし,正直「当然浪人だよね」という気持ちはありました。

自分が在籍していた高校は,「4年生高校」と言われるほど浪人生を多数輩出していましたから,浪人すること自体,今ほど抵抗のない状況だったのですね。

それでも,一応は受験をしたわけですが,やはり箱根駅伝への憧れは明確にありました。当然,箱根に出れそうな私大を中心に受験をしました。その中には,のちに自分にとってこの時が分かれ道となってしまった「慶應大学」も入っていました。

そして,当たり前のように2ヶ月の勉強で私大にそうそう受かるはずもなく。

しかし,自分のセンター試験の結果でも合格できそうな大学が一つだけありました。

あらかじめ長距離のコーチから誘いのあった,結果的に自分の母校となるある国立大学です。

ただし,この大学は国立大学ですから,当然箱根駅伝出場の可能性は限りなく少なくなります。

実は,この大学は当時の10年前の記念大会で箱根駅伝出場を果たしていて,ランマニアが入学する年がそれ以来の記念大会となる年に当たっていました。

せっかく現役で大学に入れるかもしれない。10年前は箱根駅伝に出場している大学。そして再び記念大会と重なる年。

そんなことを考えて,色々な思いはありましたが,結局この大学を受験することにしたのですね。そして結果的に入学に至ることになります。

毎年年末には母校でささやかな練習会と忘年会を開いています。当時のままの建物も・・。

そうして迎えた,初めての箱根駅伝予選会。

ランマニアは1年生ではありましたが,現在の 20km PBでもある,1時間4分58秒(当時は 20km)でフィニッシュしました。

しかし,残念ながらチームは予選回突破とはならず。事実上,自分自身の箱根駅伝挑戦は,この時に終了してしまいました。

そして先述した通り,この年は10年ごとの記念大会の年。当然,予選会通過の枠も拡大され,通常であればランクインできなかった大学もいくつか入ってきました。

その中でも国立大である「筑波大学」,そしてランマニアも受験した(落ちた)「慶應大学」の予選会突破は大いに話題となりました。

そして,当時,この結果を見て色々と複雑な思いを抱いたのを思い出します。

当時のランマニアの記録は,今ですらかすりもしない記録ですが,このタイムでも予選会総合95位。

箱根出場を果たした筑波と慶應の選手の中では,5番目とか8番目とかの記録でした。

そうなんです。

「どうしたら箱根を走れたか」

ランマニアにとってのこの答えは,「ちゃんと勉強していれば」ということだったのです。

もちろん,慶應大学に入るなど(しかも現役で),そう簡単なことではありません。

部活をやりながら現役合格を目指すなど,当時ほぼ無理なことだったと思っています。

しかし自分にとって,本当に箱根を走りたい気持ちがあったのなら,記念大会という状況も加味して,本気で合格を狙うという方法もあったのではないか,と,これは何年経っても考えてしまう事実なのですね。

とはいえ,選択した母校での生活や出会った仲間たちを思えば後悔はなく,むしろ今の今まで競技を続けられているのも,この大学を選択したからに他ならず,もし自分自身が箱根駅伝を走っていたら,果たしてここまで競技を続けていかというとそれも疑問です。

箱根は走れなかった。学生競技も猛烈に消化不良に終わってしまった。

それが結果的に細々と今も競技を続けられている理由である気がしています。

その後,「学連選抜」システムの誕生。この時も「ああ,自分らの時にこれがあったらなぁ」と,やっぱり未練は消えず。

何年か前に筑波が出た時や,学連選抜で慶應の選手が走った際も,やっぱり「おれも・・」みたない気持ちになったり。

まあ,結局何年経ってもなんだかんだで当時を思い出すわけで。

そうした中で,今日見つけたポスト「一生続くような気がする」は,なんだか猛烈に自分に刺さるフレーズだったのですね。