厚底を履かなかったわけ

こんにちは、ランマニアです。

ついに厚底シューズがレースで履けなくなるようですね(トラック、クロカンに限る)。

ランマニア的にはこれまで一度もいわゆる厚底シューズで練習もレースも走ったことがなかったので、今回の件はあまり影響しないと言えばそうなのですが。

厚底シューズを頑なに履かないランナーというのも相当数いると思います。いろいろなこだわりや理念があり、あえてそこには手を出さない、という方々。

ランマニアも、おそらく自分を知る周囲のランナー達からはそうみられていたかもしれません。確かに、「頑なに」履いてこなかったですからね。

正直に言うと、「なんでその靴でそんなに速く走れるの?」とか「なんでそのタイムで走る人なのにそのカッコなの?」みたいな、いわゆる「羊の皮を被った狼」的存在に少しの憧れがあるのは事実です。特に、服装みたいな「本質」ではない部分(もちろんレース中の服装はそれが大きく影響しますけど)にこだわっている割に遅い、みたいなスタイルはちょっと嫌だな、っていうのが自分にはあります。(ランマニアは基本レース会場には私服で行きます。夏なんかはいきなりGパン脱いでランパンになるのでラン仲間は驚きます。)

そんな、ちょっとした天邪鬼的な心理で厚底を履いてこなかったというのは、無いといえば嘘になります。

しかし、最も大きな理由は別にあるのですね。

それは、やはりちょっとマニアックな視点になるのですが、ランマニアにとって、トレーニングというのはある種の「実験」、研究なんですね。自分で色々と試行錯誤して「最適解」を探し出していく過程。

もちろん、速くはなりたいんです。PB大好きです。いや、そのために練習しています。

でも、実は「それまでの過程」にもちょっとしたこだわりがあって、そこすらも楽しみたい、という気持ちがあるのです。

で、研究や実験、そして統計なんかにちょっと詳しい方なら誰でも知っているように、こうした何らかの取り組みが本当に効果があったかどうかを調べるときというのは、その影響を及ぼしているであろうこと(ここではトレーニングですね)意外の条件を変えてはいけない、という大原則があるのですね。いわゆる「条件を統制する」というやつです。

つまり、トレーニング内容をいじったのであれば、それ以外の条件は変えてはいけない。変えてしまうと、万が一PBが出た時に、何が効果があったかが分からなくなってしまうからなんですね(トレーニング内容なのか、靴なのか、という具合に)。

そう考えると、ランマニアにとって、毎日のトレーニングはある意味「実験段階」にあるわけで、この実験からトレーニング効果があったかどうかを知るには、以前のレースと大体同じ条件で走らなければならないんですね。

ただ、これは相当に難しいことです。

生身の人間が集まって、さらに変動の激しい気候条件で同じ条件を作り出すなんていうことは、ほぼ不可能です。

比較対象としたいレースとは、まず気候条件が違うかもしれない。走る人数も、その人数を形成する走力も、その日の体調だって、何もかも同じであることはほぼあり得ませんね。

ですから、そこまでの厳密さを求めてしまうと、そもそものトレーニング効果って何?ということになってしまいます。

しかし、これまでPBを出したことのあるみなさんならお分かりのとおり、PBが出た時というのは、そうした変動する条件などを一切超越して、本当に自身の実力の向上によって記録が伸びたことを実感できると思います。

その日、たまたま調子が良かった、とか、気温がちょうど良かった、とか、確かにそういうのもあるかもしれませんが、そういうのを抜きにしても走っていて同じペースが明らかに楽になった、いうのは誰しも感じたことがあるものだと思います。

なので、個人の体調、形成する集団の走力、気候条件などは、影響は0では無いにしても、体感的にはあまり考えなくても良い条件なのかな、と個人的経験からそう思っています。

ところがです。

今回の厚底シューズだけは、そうした「微々たる差」とは到底思えないほどの圧倒的アドバンテージをもたらすシューズであろうことは、もう明白ですね。何しろ、どんな路面、どんな距離、どんな年齢層、どんな実力レベルの集団によるレースであっても、明らかにこの靴の影響としか考えられないような記録の向上が見られますから。

そんな靴ですから、当然ランマニアとてこれを履いてレースを走ればある程度のその恩恵を受けれるはずなのです。

で、話は初めの「条件を統制する」に戻ります。

もしランマニアが、あるトレーニングの効果を試そうと思って、新しいトレーニングを開始した。(変更した条件)

そのトレーニングをした後にレースを走った。

その結果記録が伸びていたら、それはそのトレーニングの効果が現れたと判断しても、まあ良さそうなものです。

しかし、新しいトレーニングを開始した。

プラス、厚底シューズを履いてレースを走った。(変更した条件2)

その結果記録が伸びた、ということになれば、それは果たして新しいトレーニングの影響なのか厚底の影響なのかが分からなくなってしまいますよね。

この辺の理屈は小学生でも理解できる子がいそうな、とても単純な理屈です。

なので、これまでランマニアは厚底シューズを履いてこなかったのです。本当に単純な理由で。

ランマニアは、トレーニングを色々試して自分の走力が上がっていくのがとても楽しいのですね。練習の段階で、「何だか最近速くなった気がするぞ」と感じられた時のあの喜びは、ランナーにしか分からない喜びですよね。

で、今回のトレーニングはうまくいった、よしレースで証明するぞ、という時に、厚底履いてもしPBでも出してしまったら、「なんだそんなもんか」というちょっと面白く無い結果になりそうで不安なんですね。(いやPBはPBだから嬉しいんでしょうけどね)

なので、ランマニアが仮に厚底を履くとしたら、一度厚底なしで走ってみて、トレーニングの効果を実感してから、と思っていたのです。履くのが嫌なのではなく、履くことでトレーニング効果を検証できないことが嫌なのですね。

いや、こんなこと自分で書きながら、何てめんどくせえやつなんだと思いますよ、本当に。職場でもいつも言われます、「めんどくさいなぁ、全く!」って。

山レースとの出会い

こんにちは、ランマニアです。

この4連休は自粛するつもりは毛頭なかったのですが、なんだか予想外の大雨で予定していた外出もキャンセルになり、結局あの緊急事態宣言が出されていた頃の「食う寝る走る(古!分かる人は同世代)」な生活に逆戻り。これはまさに想定外。

さて、Twitter界の情報を見ていると恐らく今年度はロードレースはおろか駅伝すらなくなる可能性が濃厚になり、今年のトレーニングプラン、レースプランを大幅に考え直さなければならない状況です。

まあ、ランマニアレベルのランナーでそんなたいそうなプランなんてものはないのですが、それでも現在のゴールドプログラムは10月の松本マラソンを想定して始めた練習でしたので、今後フルマラソンへ向けた練習をどうするかは本当に考えていかなければなりません(来年4月の長野マラソンは強気にやろうとしているので期待しているところですが)。

そんな中で、唯一「山レース」だけはどうやら予定通り開催してくれそうな気配があり、この連休の「擬似自粛生活」中にどんな予定で出走しようか考えていたところです。

ランマニアが山の世界に足を突っ込み始めたのは、もう今から遥か昔の2011年。きっかけは、当時マラソン界の話題をかっさらっていた川内選手(当時公務員ランナー)が積極的に山に出かけて登山道を激走しているという練習内容を紹介する番組を見たことでした。

これは衝撃でしたね。

実はランマニアも学生時代は合宿で訪れた車山高原でトレイル練習を入れたり、高尾山なども走りに行ったことはあったのですが、それこそそっちはほぼ「息抜き練習」、レクリエーションみたいなもんで、それが長距離走のパフォーマンスに影響するなどとは正直思ってなかったのですね。

そんな「山トレ」を当時2時間8分台でフルを走るランナーが行っている。これには度肝を抜かれましたね(いやその後に二郎系ラーメンの大盛りを平らげてる様子も映されていてそっちもでしたが)。

影響されやすいランマニアは早速彼が走っていた武甲山(埼玉県)に行き、同じルートで山練習をしてみました。

何を隠そう、ランマニアは「上り」にはちょっと自信があり、昔から上りコースではチーム内でも他のメンバーよりも速く走れ、自分には上り適性があるんじゃないかと少しばかり天狗になっていたのですね。

ところがですよ。登山道っていうのは我々ランナーが想像する「上り」じゃないんです。文字通り「登り」なんです。

登山道までの「上り」坂までは快調に飛ばしていたランマニアでしたが、いよいよ始まった「登山道」に差し掛かってものの10分でオールアウト。ふくらはぎがパンパンに張り、呼吸は極限に達し、もう走れなくなってしまったのですね。

「こ、この坂をノンストップで走り切ったのかあの公務員は!」とひとり山道で愕然としたのを覚えています。

結局その時は、走っては歩き、歩いては走るを繰り返しながらなんとか登頂し、初の「トレイルラン」というものの洗礼を受けたのでした。

しかしこの時の経験がなんだかやけに悔しく、その後何度もランマニアの自宅から最も近い奥武蔵近辺の山々で「山練」を重ねることとなったのです。

これがランマニアの山との出会い、トレイルランニングの始まりでした。

そして記念すべき初レースは早くもその翌年に実現します。今はなき「おんたけスカイレース2012」です(実は翌年も出走し、その一月後に噴火)。

なぜこのレースを初レースに選んだかというと、他のトレイルレースに比べ距離が短い(トレイルレースでの水平距離は正直あまり参考にはならない、ということに数年後気づきます)。レースレビューの写真がとても綺麗だった。とおおよそこの二つが理由で、完全にトレイルレースを舐め切った不純だ動機だったのですが、まあ本当に無知とは恐ろしいものです(のちに数々のレースに出ましたが、このおんたけスカイレースは屈指の難コース、しかし名レースでしたね)。

結果は皆さんの想像通りまあ酷いもので、序盤から登りをガンガンと飛ばして山頂に到達する前に脚が止まり、楽勝だと思っていた「お鉢巡り」区間では地獄を味わい、帰りは下りで足が支えられなくなる始末。なんとか完走したもののゴール直後は「もうこんなことは二度とやらない」と固く誓ったほどです。(ちなみに、トレイルレースに出る時は毎回そう誓いますが・・・)

しかし人間というものは不思議な生き物で、あの90%は苦しい記憶しか残らなかったレースの思い出も、残り10%の楽しかった記憶が強烈に頭に残るのですね。

自分の脚で駆け上がってきて迎えた標高2000mを超えたあたりの景色の美しさ。標高3000m近い地点にあるわずかな走れる区間を疾走する爽快さ。山でしか味わえない下り区間のスピード感。

ゴールした翌日にはこうした良い思い出ばかりが走馬灯のように蘇って「また走りたいな」と考えているおかしな自分がいるのです。苦しいことはすっかり忘れて。

そんなことで、その後様々なレースに出走し、正直かなり危険な目にも遭いながらもそうした魅力的な部分に取り憑かれてしまったランマニアは、とにかく「本業」のロードレースにあまり影響のない範囲でトレイルレース(ここ数年はもうスカイレースとバーティカルのみ。詳細は別記事にする予定)に出続けているのですね。

こうした「レジャー的」な目的以外にも、マラソンのためのトレーニング的要素があるとすれば、だいたい以下のようなことがあると仮定し、そのためにも定期的にトレイルレースに出走しています。

・どんなレースも走行時間は最低3時間はかかり、長い間脚を動かし続ける事で持久的能力が高められるのではないか、という仮説。

・平地には存在し得ない登り坂が繰り返されるため、心拍数を一定時間高めに維持して運動を継続できるのではないか、という仮説。

・激しいアップダウン(特に猛烈な下り坂)、バランスを取りづらい不整地を走り続けるため、姿勢維持のための筋肉(俗にいう体幹、上半身)が、筋トレをするより効率的に鍛えられるのではないか、という仮説。また、脚の関節の可動域が大きくなるので柔らかな脚の使い方を身につけられるのではないか、という仮説。

・緊張感を強いられる下り坂を一気に下ることで、反射神経や運動に関する脳領域(小脳など)を鍛えられることができるのではないか、という仮説。(これはマラソンにはあまり関係ないかもしれませんが、若さを維持するため。)

・夏場のロングジョグは平地ではかなりきついので、その代替練習として。

一方で、デメリットもあります。

・普段山練習をメインにしていないので、一度レースに出ると酷い筋痛に見舞われ、しばらくロードの練習ができなくなる。

・必携品の重量が2kg近くになり、かつ走行距離も長いため脚への負担が増大し故障を誘発しやすい。(実際トレイルレースが原因での故障を何度かしている)

これらの良し悪しを考慮して、通常ならば5月あたりから定期的にレースを入れてきたのですが、今年は7月まで全てのレースがなくなってしまいましたからね。

幸い、10月のレースは開催予定とのことでバーティカルやスカイレースを中心に予定を組んでいるところです。

ここ数年のトレイルランニングとの向き合い方についてはまた機会を改めて記事にしようと思っています。

ラス1とどう向き合うか

こんにちは、ランマニアです。

4ヶ月にわたって続けてきたこのゴールドエリートプログラムも、今日LTインターバル(クルーズインターバル)を終えて、いよいよ後1週間となりました。今月は、IもTもRもある総まとめの4週間でしたがどうにか3サイクルこなすことができました。

今日はLTペースなので、まあそれほどがむしゃらに苦しむような練習ではなく、1kmも3分25秒前後で気持ちよく走れば良い「快適なきつさ(ダニエルズ)」の練習でした。なので、ランマニアとしても少し余裕を持って、楽に、だいたいこのままであれば40分から60分くらいは持つペース(60分はよほど疲れていない時ですが)という感覚で走りました。それで1kmを3分25秒前後で行ければ御の字、というくらいの感覚で。

今月、ここまで2回のLT走ではだいたい3分23秒〜25秒くらい(結構不安定で時には19秒くらいから30秒くらいかかる時もありました)のペースを維持できていましたが、今日は1本目こそ3分24秒とちょうどいいペースだったものの、2本目以降はかなりペースが上がってしまい、21秒、21秒、19秒、19秒と、もうほとんど3分20秒/kmペースとなってしまいました。

ところが、これは結構無理して維持したペースではなく、きつさとしてはいつもの3分25秒くらいで走っていた時と同じくらいの呼吸のきつさ、脚のきつさを維持していたので、それほど飛ばしたわけではなかったのですね。ですから、恐らくこの数ヶ月の取り組みで、次第にLTペースも向上してきた感はあります。

そしてこれだけいいペースで走って、最後の1本を迎えました。ここまでがほぼLTペースですので、まあ余裕はあると言えばあります。「最後の1本。これで今日の練習は終わりだ!」とか思うと、ついつい早く切り上げたくなったり最高タイムで終えることで練習の充足感を味わえたりします。

過去の記事で何度も触れた通り、人間はメンタルの力によって結構疲労感や苦痛をカバーすることができるのですね。ですから、こういう「あと1本」とか「あと1km」「あと1周」みたいな「いよいよ終わりが見えてきた状態」というのは元気が湧いてきて、ついついペースも上がってしまいがちなんです。

若い頃のランマニアは、練習ではほぼ毎回こういう時に気持ちに任せてできるだけ「出し切って」最後の1本、最後の1km、最後の1周をそれまでの最高ペースで終えていました。まあ、なんでも「尻上がり」というのは気持ちがいいものです。

でも、今は事情が違います。若い頃のようにすぐに疲労は取れませんし、数ヶ月にわたって一定の水準の練習を継続するには、翌日、いやもっと先の練習をこなすことまで考える必要があります。そういう状態では「ラスト1本出し切って」しまうようなことはそれこそ命取りなんですね。

それはわかっているのですが、やはり練習中の興奮状態では、なかなか抑制がきかずついつい「最後の1本」を攻めてしまいそうになるのです。

そこで今日は、ちょっと勇気がいたのですが、あえて「最後の1本は力を抜いて走る」というのを試してみました。調子は悪くなく、最後の1本も快調に走れそうでしたが、そこを「あえて」力を抜くのです。

それまでの1kmは3分19秒くらいできていましたから、気持ちの中ではだいたい3分25秒くらいでいいや、くらいの気持ちでスタートしました。

しかし結果はそれでも3分21秒。

そうなんです。「ラスト1本」の精神状態では、相当抑えても想定よりもかなり速くなってしまうのですね。ですから、もしこの時いつも通り走っていたら、恐らく3分19秒より速くなってしまったいたと思われます。

こんな走り方は、高校時代などではとてもとても考えられませんでした。それこそ集団練習で常にバチバチ競り合ってますし、そんな時に「ラスト1本は力を抜く」なんて考えもできませんでした。当時はそれでも、疲れが溜まるなんてことはほとんどなかったですし。

そういうこともあり、ここ数週間はとにかくVO2Maxインターバルも、LT走もかなり余裕を持ってその日の練習を終えることができ、それがまた次の練習への余裕につながり、いい循環が生まれていると思います。

一回の練習における余裕度が上がってくると、常に疲れを溜めずに練習を継続できるので、一定の質を保った練習の続けられる期間が長くなってくるのですね。

さて、ここでも「残りあと1週間」という「ラス1」を迎えてしまっていますが、まだまだゴールは先にあるという意識で、あまり出し切らないように気を付けていこうと思います。

まさかこんな46歳を迎えられるとは

こんにちは、ランマニアです。

今日は46回目の誕生日でして、Twitterではたくさんの方に「いいね」のお祝いをいただきました。恐らく、人生で最もたくさんの方に祝福された日になったことでしょう。

さて、このブログでも何度か触れてきましたが、ランマニアは基本的に「全開」でトレーニングはできません。詳細は過去記事に書いてありますが、とにかく無理をして追い込むようなことをすれば、とたんに数日から数週間は走れなくなります。

なので、社会人になり競技に復帰したとは言え、常に「完全にはやれない状態」と付き合いなながら、なんとなく日々の練習で無理のない範囲でジョグをしたりインターバルをしたり、まあいってしまえばお茶を濁しながら練習をしてきたのですね。

記録更新を目指そうと思ってもレース当日の体調が優れず撃沈したり、相応の記録を目指すためのトレーニングに耐えられなかったりして、知らず知らずのうちに「もうこんなもんだろ」という感覚が染み付いていたのは事実です。

ところが、昨年の11月以降、ちょっとトレーニングへの向き合い方を変えてみる機会が訪れました。

それまでは、はじめに「こうあるべき」トレーニング内容が存在していて、それに自分の体を合わせようとして走ってきたのですが、これがどうも長く続けられず、調子もすぐに壊す悪循環が続いていました。その中で「たまたま」調子の良い時にレースに出ると記録更新(フルに限ってですが)、という感じでした。

しかし11月以降たまたまなんですが、ちょっと毎週のようにレースが続いた時期がありました。今にして思うとあまり良いことではなかったのですが、このサイクルが自分の練習への向き合い方を変えるきっかけになりました。

みなさん経験されている通り、レースに出るとかなりの負荷がかかりますから、その後しばらく疲労が抜けずまともな練習ができなくなります。

それでも練習は継続しなければなりませんから、レースとレースの間に何もしないわけにはいきません。ある程度の疲労を抱えたまま。

この時期、とにかく毎週のようにレースがあったものですから、この平日をどうこなすかが結構大きなテーマになっていました。

で、以前なら「スピード落とさないように一度くらいはポイント入れなきゃな」と思って、疲れていても無理にインターバルをしたりしていたのですね。

当然、体にはこたえます。新たな疲労を溜めて次の練習を迎えることになります。

なので昨年11月からは、この平日は「自分の疲労に従って強度、ペース、時間を決めよう」ということにしました。

先に「メニューありき」の練習を「トップダウン的アプローチ」とすれば、先に「体調ありき」の練習を「ボトムアップ的アプローチ」とでも言いましょうか。自分の体調に合わせて練習が決まっていく、非常に流動的で柔軟な練習方法です。

これがはまったのですね、久々に。

走っている最中に疲れが大きいと思えば、それ以上ペースを上げない。アップの時点で無理そうならもうスピード練はやらない。試合後2日間はだるいから走らない。

もうそんないい加減なテキトーな基準です。気持ちの赴くまま。

ところが、このサイクルでレースに出続けていたところ、毎週のようにそこそこ結果を残すことができ、疲労も以前のように一線を超えにくくなってきたのですね。

そうこうしているうちに、突然自粛生活が始まり、レースも無くなりました。

ここで考えました。「今なら系統立った計画的な練習ができるんじゃないか」と。

レースもない。1週間の調子の維持の仕方もなんとなくコツがわかってきた。在宅で時間もある。

これまさに「今でしょ」ってやつでしたね。

そしてたまたまダニエルズさんの第3版を手に入れて、体力向上プログラムなるものが目に止まり、内容をざっと見ると、週2回のQデー(質の高い練習の日)のメニューが、ギリギリランマニアでもこなせそうなレベル。残りの5日のジョグが思いの外長いのが気になりましたが、でもペースを抑えればなんとかいけるんじゃないか、と思ったのです。

とは言え、はじめはどうせ2週間くらいでいつも通り疲労がたまって終わるだろうと思っていました。キツければやめればいいんだし、と。

確かに、フェーズ1の1サイクル目は相当しんどかったです。400m10本なんて20年以上やってませんから、初めてこれやった日はその夜起き上がれないほどで。こりゃ無理だな、と。

でも、まあとにかく撃沈しようがどうしようが、ひとまず続けてみようと思い、ジョグのペースはしんどいならもうキロ6でもなんでもいいから時間まで走ってみようと。クオリティは考えずにとにかく書かれていることをやり続けてみよう、と。

それを繰り返しているうちに、46歳になってしまったんですね。

もうランマニア的には信じられない思いです。こんなに長い期間トレーニングを継続でき、しかもそれが週2回の高強度練習と週1回のロングランが入った内容ですからね。これが3ヶ月半も続いてしまったのです。

この数ヶ月で気付いたのは、以前Twitterにも書いたのですが、恐らくこれまではいきなり強度や負荷を一気に上げすぎたために体が耐えられなかった。これが最大の失敗だったと思っています。

そして、ランマニアのような不可逆的な疲労症状を抱えていても、しっかりと小さなステップを積み重ねていけば、本当に徐々に徐々にですが溜められる疲労のキャパシティーも上がっていくのかもしれない、と体感的に実感できたのですね。

まさに、ボトムアップから入りトップダウンに耐えられるようになった、そんな実感です。

それが実感できたら、もしかしたらこの先もこうして少しずつ練習の強度や負荷を積み上げていくことで、結構本格的なトレーニングもできるようになるんじゃないかと思っているところです。

昨年45歳の誕生日の時は、まさか翌年こんなことを考えられるようになるとは想像もできませんでした。

唯一残念なのはこの成果を発揮するためのレースがないことですが、しばらくは「私設」の記録会などに出走して現時点のパフォーマンスを確認してみようと考えています。

燃え尽きないために

こんにちは、ランマニアです。

今日はフェーズⅣに入って二度目のLTインターバル(クルーズインターバル)で、先週よりもだいぶ余裕を持って同じペースで走れるようになってきました。

疲労の関係もあるでしょうが、先月のフェーズⅢでは3分25秒ペースがかなりいっぱいいっぱいだったところ、先週今週は3分20秒を切ってしまうような回もあり、同じ3分25秒ペース(Tペース)がずいぶん余力を残して維持できるペースとなった気がしています。脚を割って顕微鏡でミトコンドリアなどを観察するわけにはいきませんので、こうした感覚だけが頼りなわけですね。

さて、このダニエルズのプログラムを始めてこれまで特に気を付けていることがあります。

それは、常に「余裕を持って走る」という意識です。

この「余裕を持つ」というのは、フィジカルな面でもあるしメンタルな面でもあるのです。

例えば、フィジカルな面で言えば、呼吸がいっぱいいっぱいにならないように、とか、脚の疲労が限界近くにならないように、といった身体からのサインに耳を傾けながら。

メンタルな面で言えば、「相当しんどいけど、ここは気持ちで押していくぞ」的な、「頑張る」状態をできるだけ避けるように、といった感じで。

これらは兎にも角にも、当然故障の防止という最大の目的があるのはいうまでもなく、さらにはランマニアの抱えている慢性疲労を悪化させないようにという、身体的、生理学的な目的が多くを占めています。

しかし、同時にもう一つ、ある重要な目的のためでもあるのですね。

それは「燃え尽きないため」

ランマニアは、学生時代から本当に走ることが好きで好きで、いまだにこれを超えられるような趣味や、これ以上に興味があるものに出会うことがないほど数十年にわたってこの趣味を続けてきました。まあ、やめる時は死ぬ時だろうな、というくらい、走ることのない生活は想像できない、といった具合です。

ところが、実はそんなランマニアが唯一、たった一度だけ「燃え尽きそう」になったことが、かつてありました。

それは、本当に最近のことなんですが、2017年にフルマラソンで自己ベストを出した時です。

2017年の東京マラソンで、ランマニアはそれまで絶対に切れるとは思っていなかった2時間40分を切って10年来の目標を達成したのですね。

その時の嬉しさといったらなく、大袈裟でなく「もう死んでもいいや」というくらいの達成感と充足感に満たされたのでした。

ところがそれから1ヶ月あまり、それまで経験したことのないような「無気力感」に苛まれることになります。

なんというか、もう走る目的がないというか、これ以上の記録の向上は想像もできないというか、とにかく感じたことのない気の遠くなるような絶望感に近い無気力感。

なぜ、こんな気持ちになってしまったのかというと、実はその東京マラソンまでの練習では過去にないほど体を追い込んでいたのですね(いや、そんな大した練習ではないのですが、ランマニア的にです)。正直、毎日仕事終わりにその練習を継続するのが本当にストレスになる程(今の状態がかなりいいので、当時の状態を振り返ると相当ストレスになっていたことに気づく)、我慢に我慢を重ねていたのです。

なので、ついに念願かなって到底たどり着けるとは思っていなかったような大記録を打ち立ててしまったときに、正直「もうこれ以上は頑張れない」という今まで一度も感じたことのないような感情が湧いてきました。

なんということだ、「走りたくない」という気持ちが芽生えている。

驚きましたね。走りたくない、なんて一度も思ったことのなかったランマニアがそんなことを考えていたのですから。

幸い、そこで少し気分を変えてスカイランニングの方にウェイトを置いたところ、いつの間にかまた走るのが楽しくなっていましたが、あの3月、4月は本当に危なかった。

人間は、「頑張っても頑張ってもその労力が報われない経験」を重ねると、「学習性無力感」という気持ちに支配されます。いわゆる「無気力」「やる気のなさ」というやつですね。

あの時のランマニアは、頑張って頑張ってそれが報われたのですが、その後、さらに記録を伸ばすには「もっと頑張らなければならない」という「気の遠くなる感じ」が、「擬似的に」無力感を感じる原因となっていたものと思われます。もうあんなにしんどい日々を我慢するのは無理、という感じですね。

ランナーは記録の向上のためならいくらでも(それは言い過ぎか)きついことを我慢できてしまう生き物です。しかし、ランナーとて人間ですから、その我慢にも限度がありそのキツさはしっかりと記憶に残ります。そうすると、本来楽しむためのランニングがいつの間にか「嫌悪刺激」に変わっていってしまうのですね。東京マラソンを目指していたランマニアが、まさにその状態でした。

これを避けるために、ランマニアは毎回の練習をできるだけ楽に、楽しく、快適に終えるよう心がけているのですね。

余裕を持って終えられると、その日の練習は必ず快適さの記憶が多く残って終えることができます(多少のしんどさは避けられませんがね)。しんどさにしても、適度なしんどさ、終えた後の爽快な気分が残る程度のしんどさに留めるよう心がけています。

その結果、この4ヶ月は、とにかく日々の練習が楽しみになりました。いえ、インターバルや閾値走の日はそれなりに憂鬱な時もありますが、それでも「今日はどれくらいで走れるだろうか」という楽しみもだいぶあります。

さらに、そうしたメンタル面だけでなく、生理学的な疲労の点でも余裕が出てきて、長い間練習を継続できる体調を維持できるようにもなりました。

とにかく、毎週無理なく練習を継続できるので、それ自体も楽しいのですね。

なので、インターバルにせよジョグにせよ、毎回の練習で「頑張りすぎない」「無理をしない」「追い込まない」をキーワードに、練習をする癖をつけてきました。

ただ、これは今の特殊な事情がそうさせているとも言えます。

3月以降のコロナ生活で、とにかくレースや練習会など「人と競う」機会が一切なくなりました。これはとても大きなことですね。

人と競わない、ぼっち練ばかり。これではどうしたって完全に自分のペースを守れますし、いい意味で「自分に甘く」なれるため、無駄なペースアップ、無駄な追い込みは無くなりますね。

ですから、この特殊な状況でなくなった後でも、今のスタイルを貫き続けられるかが、一つのポイントですね。

もちろん、練習会などで刺激をもらいながら、ペースを作ってもらいながら、自分の持てる以上の力を発揮する経験も時には必要なことなんですけどね。

痛いのに走るのはなぜ?

こんにちは、ランマニアです。

フェーズⅣの1サイクル目もなんとか予定通りこなせ、今のところ脚の痛みなどもなく後3週間この練習を続ければ、ダニエルズさんのゴールドプログラムも終了となります。

この3ヶ月間、ランマニアとしては奇跡的に怪我をせずに練習をこなせていますが、このプログラム開始当初はそれでも一時ふくらはぎが危なくなることもありました。その時は思い切って3日ほど休みを入れましたが、そうやってしっかり休んで怪我を悪化させずに済むこともあれば、無理して3週間コースとなることもあります。

では人はなぜ痛いのに走るのでしょう(すみません、ランマニアだけかもしれませんが・・・)。

以前の記事でも書いたように、人が行動を起こす動機付けは大きく分けて2種類あると考えています(細かく分けるともっとあるのですが。ここば便宜上2種類にしておきます)。

一つは、それをすると何かいいことがある時。もう一つは、それをしないと何か嫌なことがある時。

それで考えると、「脚が痛い」となればすなわち「苦痛」ですから、それは「嫌なこと」、つまりその苦痛から逃れるために「走ること」はやめるはずなんですね。脚が痛けりゃ走らない。本来これが自然な反応です。

ところが、ランナーは走るのです。痛くても。

そこで考えてみました。どうして痛いのに走るのかを。

まず、痛いのに走るとその後に訪れる良いこととは何かを考えてみます。ランマニアならだいたい次のようなことでしょうか。

・この練習を予定していた。途中で止めるのはなんとなく気持ちが悪い。なんとか完遂させたい。→つまりやり遂げた「達成感」

これはよくあることです。練習計画に従って進めてきて、それを途中でやめたくない。やり遂げたい。「達成の欲求」、というやつですね。

・このまま走ってもこの痛みなら大丈夫。走った後は痛みも消えるだろう。だから走り続けよう。

これはそのまま走ることでの良いこと、というよりは、その痛みが「深刻ではない」という思い込み。「走りきる」「予定の練習をこなせる」という良いことが待っているため、痛みを我慢する。まあ、一つ目の理由に近いところはありますが、一つ目と違うのは脚の痛みを「楽観視」しているところでしょうか。ランマニア的には、これがものすごくあります。達成の欲求というより、痛みを深刻に捉えてない、という結果。そして、経験上、本当にことなきを得てしまうこともあるため、本当にヤバい時にも休めなくなってしまうのですね。これは非常に危ない罠です。

では、一方で、痛いのに走らないと何か嫌なことが待っているのか。

これは結構複雑な心理状態がある気がします。

・脚が痛い。でもここでやめたらどうしてもやっておきたかった練習がやれないことになる。→走力が高まらないかもしれない、という不安な気持ち(実際には1日休んだくらいではほとんど関係ない)

例えば、インターバルなど強度の高い練習をやろうとしていた時などは、それを一回やらないことでトレーニング効果が得られないことを心配しますね。実際には大したことではないのですが、なんとなく気持ちが悪いものです。それを回避するために、痛くても走ってしまう。これも、昔はよくありました。

・脚が痛い。でも、怪我をしたと認めたくない。ここでやめてしまったら、故障した事実に直面化させられる。走り続ければ、「やっぱり大丈夫だった」と思えるかもしれない。→故障した事実を認めたくない。走るのを止めると故障した事実を認めることになる。

これ、「そんなバカな」と思われるかもしれません。いや、こうして客観的に書くと本当に「馬鹿じゃねえの」って自分のことでもそう思いたくなりますが、ランマニアは以前実際にこうした心理状態に陥り、痛いのにやめられなくなったことがありました(当然悪化し長期離脱)。なんというか、怪我した事実を受け入れたくないんですね。「走れるじゃないか」みたいな。完全に事実から目を背ける「逃避」ですよ「逃避」。

まあ、ランマニア的にはこんなところですね、痛いのに走ってしまう時というのは。

一方、最近はほとんどこういうことはなくなりました。

なぜなくなったかと言いますと、やはり「痛い時はすぐにやめて悪化させずに済んだ経験」をしてきたからでしょう。

人間は「経験」から「学習」することができます。「こうしたら、こうなった」という経験を積むと、「こうすること」が機能することに気がつきます。それによって行動が変容することが「学習」なんですね。

で、もしこのようなことを学習するには、やはり「こうなった」という経験をしないことには学習は得られません。「痛いのに走る」を続けている以上、こうした経験は決して得られることはなかったでしょう。

少しの痛みで練習を中断をするのはとても勇気のいることです。勇気という表現には語弊があるかもしれませんが、止める決断をするのが意外と難しいのですね。

なぜそれが難しいかというと、やめて直ぐに得られる報酬がなく、やめることで得られる報酬はかなり先にあるからなんですね。(あの時やめておいてよかった、と思えるのは、かなり先になって痛みがひいた時)

ですので、ランマニアも走れそうな痛みでも途中で練習を止めるような時は、本当にしんどいのですが、頭の中で「今やめれば三日でよくなるよ。でもやめなければ3週間走れなくなるよ」と言い聞かせて思い切ってやめるようにしています。

そう思えるようになったのは、やはり、「練習は続けてなんぼ」と気づき、「今日の練習はなんとしても」のような刹那的な感覚を捨てたからなんだと最近は思います。

結局のところ負荷をかけることより回復させることを計算に入れてトレーニングするのが大事だと気づく

こんにちは、ランマニアです。

今月からダニエルズさんのゴールドプログラムもフェーズⅣに入り、いよいよこのプログラムも最後の仕上げとなってきました。

「仕上げ」と言っても、このプログラムが終了すると「どんな距離のトレーニングにも対応できるようになる」と言うことなので、何か劇的に走力がアップするとか(そもそもそれを目指していない)、いつでもPBが出せる状態になるとかそう言うことではありません。あくまで、「本格的なトレーニングを開始できる体の準備が整う」と言った状態でしょうか。

そんなゴールドプログラムは全部で4つのフェーズから成っていて、最初のフェーズでは400mのRペースとTペースの組み合わせ。次のフェーズでは200mのRペースとIペースの組み合わせ。そして最もきついフェーズⅢはIペースとTペースの組み合わせと、徐々に負荷を上げていきながら、様々な速度域(と言うか心拍域)の練習をこなせるようになっていく流れになっていたのですね。

そしてそれをこなしているうちに、本当に少しずつですがそれまでの練習が楽になっていくのでした。本当によくできています、このプログラム。

そうして段階を踏みながら徐々に練習をこなす体力(回復力や耐性)が高まってきたところで最後のフェーズⅣです。

フェーズⅣは、もう本当にこれまでの「総集編」。ついに、全ての速度域の練習が1週間に組み込まれることになりました。

月曜始まりの流れで始めた場合は、火曜日がIペース+Rペース、金曜日がTペースと言ったように、一回の練習に二つのゾーンの練習が組み込まれるようになりました。

そんな流れで今日はフェーズⅣ開始後初めてのQデー(質の高い練習日)。のっけからIペースとRペースの組み合わせです。

はじめこの練習を見た時、Iペース(表記上はHペースですが)が3分で3本、そのあと200mのレペティションを8本、と言うことで、正直「気が楽だな」と感じてしまいました。と言うのも、先月の4分インターバルがあまりにもしんどすぎて、それが3分に減りかつ3本で済むのが非常にありがたく感じたわけですね。

これは、一見メンタル的な「適応」のように思えますが、体が4Hインターバルに慣れかけていたので「楽に」感じる、結構フィジカル的な「適応」であると思っています。

そしてその後に控える200mレペも、フェーズⅡで行った16本の半分でいいわけですから、これも随分気が楽に感じました。

果たして今日はアップの時点でだいぶ調子がよく、昨日までの怠さが嘘のよう。実はランマニアは数日休んだ後は、筋の疲労はすぐに取れるのですが、神経系の疲労(疲労感、だるさ)の回復には結構時間がかかるのですね(それが慢性疲労が完治していない状態なのですが)。それがようやく今日になってだいぶ回復し、文字通り「心身共に」元気な状態で、この初めての組み合わせ練習を迎えることができました。

こう言う疲労が抜けて元気な時って、走る前になんとなくだいたい「これくらいペースを楽に行けそうだな」と言う感覚みたいものがわかるのですね。これは本当に不思議です。自分が楽に行けそうなペースが、頭に想像できてしまうのです。これは昔からそうでした。

で、今日もちょっと出力を上げて走れば多分3分一桁ではいけるだろうな、と言う感覚があったので、初めは少し様子見で走りました。

IペースはVO2maxに到達するペースですから、想像しているよりは意外と余裕のあるペースです(2分間以降は結構苦しくなりますが)。

その感覚は体が覚えていて、それくらいのピッチと出力で走り続けたところ、だいたいキロ3分10秒を切るくらいのペースで3分を終えました。先月の4分インターバルでは先に脚が疲れてしまって、もっと遅いペースでもこんなに楽ではありませんでした。

疲労がいかにパフォーマンスを低下させるかがよくわかる良い例です。

その後も出力固定で3本全て、だいたいキロ3分9秒程度のペースを維持でき余裕を持って200mを迎えることができました。

問題はこっちのレペティションで、想像ではもっと楽に気持ちよく走れると思っていたのですが、8本全てがかなりのキツさでした。呼吸というより脚の疲れですね。まあ、3分一桁ペースで3分間を3本も走ったのですから疲れがないわけはないのですが。

とはいえ、最低限Rペース(だいたい35秒くらい)は守ることができ、久しぶりにこのQデーの練習を完遂することができました。しかも余裕を持って。

ただし、先月よりも明らかに速いペースでインターバルを行なっているため、この疲労は必ず後になってどっとやってきます。本当はもっとペースを抑えなければならないところでしたが、疲労がうまく抜けていたのに加え、やはり先月までのトレーニング効果が出始めていたものと思います。キロ3分10秒ペースの余裕度が明らかに違いました。この後やってくる疲労に対して、どこまで対応できるかが重要です。

今日のように、一見余裕を持って終えたつもりでも、インターバルは5000mのレースペースを遥かに上回ってしまいましたし、200mという短い距離とはいえこのペースもかなりのペースです。ダメージがないわけがありません。下手したら、トータルすると5000mのレースを走ったくらいの負荷があった可能性すらあります。

なので調子がいい時ほどペースには気をつけなければならないのですね。

月初めに休んでリセットさせた後は、しばらく好調を維持できます。しかし、質の高い練習を継続しているうちにロープレのHPが少しずつ無くなっていくように、次第に元気が減っていきます。

それを最小限に食い止め、さらには1週間のサイクルの中で少しでも多く回復させ、求められた刺激をいかに体に与え続けられるかが、トレーニングの真髄だと今は考えています。

「気持ちで頑張る」とは

こんにちは,ランマニアです。

今週は昨日の閾値インターバルと金曜日のVo2Maxインターバルまでをやり,なんとかフェーズⅢを締めたいと思っていたのですが,結局昨日の練習はもうこれ以上「気持ちで押し通す」のも難しい状態になり,しっかりと休養をすることにしました。

そこそこの疲労状態にあっても,人間「気持ち」である程度カバーできるのは経験上みなさんも感じていることと思います。

これだけ「科学的な」根拠がたくさん溢れてきてもなお「気持ち」「気合」「根性」と言った,いわゆる「精神的な」要素がいまだに身体的パフォーマンスに影響することが重視され,ヘタをすると「それこそが最も重要なこと」とさえ捉えているとしか思えないような発言も聞かれたりもします。

しかし,実はランマニア的にはこうした「気持ち」がパフォーマンスに及ぼす影響は無視できないと考えています。

それはなぜかというと、「気持ち」のメカニズムを考えたときに、こちらもれっきとした「科学的に」説明できる仕組みが備わっているからなのですね。

過去の記事でも何度か触れましたが、「気持ち」の正体は言うまでもなく「脳の中」に存在しているものです。全てが解明されているわけではないですが、ある程度は明らかにされていて、「気持ち」を形作ると思われている部分、物質などもある程度わかってきています。

ランマニアは脳の専門家ではありませんので(多少の知識はありますが)ここで中途半端な説明をすることは避けますが、とにかく「気持ち」と言うのはざっくり言うと我々が覚醒している時の「意識」とか「集中力」とか「注意力」とか呼ばれているものの総称と考えられると思います。

では、なぜこういったものが私たちの取り組んでいる長距離走に関係するかと言うと、私たちが速く走ろうとすれば高い筋力を発揮しようとして「意識」を「集中」させたり、「気持ち」を「強く」込めるような状態になるかと思います。

このような「集中力を高めてそれを維持」したり「高い筋力を発揮しようと意識する」ようなことを「心的努力」と言ったりします。

で、この「心的努力」の正体こそが、以前からこのブログで定義してきた「筋などの末梢に向けて送られる電気的信号の強さ」と考えています。

つまり、「気持ち」とは「電気的信号の強さ」と同義だと思っています。

ところが、人間の体はこの「電気的信号」を際限なく強めていけるかと言えばそうはいかず、ある程度の「出力」がかかったところでそれ以上の信号が送れなくなっています。

それはなぜでしょう。

音楽を聴く時のスピーカーの仕組みを思い出してみましょう。

ボリュームを上げていくと電気的信号がどんどん強くなりスピーカーがどんどん大きく震えると思います。それが音量の大きさですね。しかし、想像がつくと思いますが、さらにボリュームを上げていけばいずれはスピーカーの強度は限界に達し最終的には破れてしまいます。

これを筋肉に置き換えてみてください。

「もっと速く走るぞ」「まだまだたくさん走るぞ」と脳からの出力(気持ち)をどんどん上げていけば、最終的には筋は壊れてしまいますよね。

これを防ぐために、人間は脳に対して「もう無理だよ」と言う信号を逆方向に送るようになっています。それが、「疲労感」であったり「痛み」であったりするわけです。いわば、人間に備わる「リミッター」のようなものですね。

人間が感じる「苦痛」や「不快感」は体を守るための大事な情報なんですね。

ところが厄介なのは、こうした末梢からの苦痛の情報に対しては、人間は「ある程度は」我慢ができたり「慣れ」たりできるようになっているのですね。いわゆる「頑張れてしまう」わけです。

「頑張れ!」とか「まだまだいけるぞ!」とか、周囲が激励するのは、結局こうした「苦痛」に対する「我慢」を促す声かけなんですね。

しかし末梢の器官はそろそろ危ない状態になっているわけです。だからこそ警戒信号を脳に送っているのです。その信号を「気持ち」でカバーして我慢し続けてしまえば、最終的には筋が簡単には修復できないほどの損傷を受けたり(つまり故障)、休んでも回復しないほどの疲労(慢性疲労)が溜まったりするわけですね。

とは言え、レース中に苦しくなったからと言って簡単にペースを落とすわけにはいきませんし、フルの終盤に脚が動かなくなったと言って簡単に自己ベストを諦めるわけにはいきません。ある程度は「頑張ら」ないといけない時もどうしてもあります。

それによって、自分の「肉体的な」限界を突破して、最高のパフォーマンスを発揮することができるわけです。

これが、「気持ちの力」がまんざらでもないと考えている理由です。いえ、むしろ、「気持ちの力」は私たちの肉体的な能力を最大限に引き出す「魔法の力」であるとも言えるでしょう。

それほどの効果を持つ「とっておきの力」なわけです。

だからこそ、こうした「とっておきの力」を濫用してはいけない、と思うのですね。

何でもかんでも「気持ちで解決」させようとする考えに賛成できない理由がここにあります。

なんと言っても本来「気持ちの力」を発動させているのは「体の危険信号を無視している状態」ですからね。この力を発動させているうちは、多かれ少なかれ「体が壊れ続けている」状態です。できれば最低限に、できればここぞと言うときにだけ、使うべき力なんだと思うのです。

「気持ちの力」の効果は絶大だと思っています。

でもその危険性には目を向けずに、その力に多くを頼る、あるいはあたかもそれが「スポーツの本質」とでも言わんばかりの価値観(いわゆる根性論、精神論)に賛成しかねるのは、そうした理由からなのですね。