「気持ちで頑張る」とは

こんにちは,ランマニアです。

今週は昨日の閾値インターバルと金曜日のVo2Maxインターバルまでをやり,なんとかフェーズⅢを締めたいと思っていたのですが,結局昨日の練習はもうこれ以上「気持ちで押し通す」のも難しい状態になり,しっかりと休養をすることにしました。

そこそこの疲労状態にあっても,人間「気持ち」である程度カバーできるのは経験上みなさんも感じていることと思います。

これだけ「科学的な」根拠がたくさん溢れてきてもなお「気持ち」「気合」「根性」と言った,いわゆる「精神的な」要素がいまだに身体的パフォーマンスに影響することが重視され,ヘタをすると「それこそが最も重要なこと」とさえ捉えているとしか思えないような発言も聞かれたりもします。

しかし,実はランマニア的にはこうした「気持ち」がパフォーマンスに及ぼす影響は無視できないと考えています。

それはなぜかというと、「気持ち」のメカニズムを考えたときに、こちらもれっきとした「科学的に」説明できる仕組みが備わっているからなのですね。

過去の記事でも何度か触れましたが、「気持ち」の正体は言うまでもなく「脳の中」に存在しているものです。全てが解明されているわけではないですが、ある程度は明らかにされていて、「気持ち」を形作ると思われている部分、物質などもある程度わかってきています。

ランマニアは脳の専門家ではありませんので(多少の知識はありますが)ここで中途半端な説明をすることは避けますが、とにかく「気持ち」と言うのはざっくり言うと我々が覚醒している時の「意識」とか「集中力」とか「注意力」とか呼ばれているものの総称と考えられると思います。

では、なぜこういったものが私たちの取り組んでいる長距離走に関係するかと言うと、私たちが速く走ろうとすれば高い筋力を発揮しようとして「意識」を「集中」させたり、「気持ち」を「強く」込めるような状態になるかと思います。

このような「集中力を高めてそれを維持」したり「高い筋力を発揮しようと意識する」ようなことを「心的努力」と言ったりします。

で、この「心的努力」の正体こそが、以前からこのブログで定義してきた「筋などの末梢に向けて送られる電気的信号の強さ」と考えています。

つまり、「気持ち」とは「電気的信号の強さ」と同義だと思っています。

ところが、人間の体はこの「電気的信号」を際限なく強めていけるかと言えばそうはいかず、ある程度の「出力」がかかったところでそれ以上の信号が送れなくなっています。

それはなぜでしょう。

音楽を聴く時のスピーカーの仕組みを思い出してみましょう。

ボリュームを上げていくと電気的信号がどんどん強くなりスピーカーがどんどん大きく震えると思います。それが音量の大きさですね。しかし、想像がつくと思いますが、さらにボリュームを上げていけばいずれはスピーカーの強度は限界に達し最終的には破れてしまいます。

これを筋肉に置き換えてみてください。

「もっと速く走るぞ」「まだまだたくさん走るぞ」と脳からの出力(気持ち)をどんどん上げていけば、最終的には筋は壊れてしまいますよね。

これを防ぐために、人間は脳に対して「もう無理だよ」と言う信号を逆方向に送るようになっています。それが、「疲労感」であったり「痛み」であったりするわけです。いわば、人間に備わる「リミッター」のようなものですね。

人間が感じる「苦痛」や「不快感」は体を守るための大事な情報なんですね。

ところが厄介なのは、こうした末梢からの苦痛の情報に対しては、人間は「ある程度は」我慢ができたり「慣れ」たりできるようになっているのですね。いわゆる「頑張れてしまう」わけです。

「頑張れ!」とか「まだまだいけるぞ!」とか、周囲が激励するのは、結局こうした「苦痛」に対する「我慢」を促す声かけなんですね。

しかし末梢の器官はそろそろ危ない状態になっているわけです。だからこそ警戒信号を脳に送っているのです。その信号を「気持ち」でカバーして我慢し続けてしまえば、最終的には筋が簡単には修復できないほどの損傷を受けたり(つまり故障)、休んでも回復しないほどの疲労(慢性疲労)が溜まったりするわけですね。

とは言え、レース中に苦しくなったからと言って簡単にペースを落とすわけにはいきませんし、フルの終盤に脚が動かなくなったと言って簡単に自己ベストを諦めるわけにはいきません。ある程度は「頑張ら」ないといけない時もどうしてもあります。

それによって、自分の「肉体的な」限界を突破して、最高のパフォーマンスを発揮することができるわけです。

これが、「気持ちの力」がまんざらでもないと考えている理由です。いえ、むしろ、「気持ちの力」は私たちの肉体的な能力を最大限に引き出す「魔法の力」であるとも言えるでしょう。

それほどの効果を持つ「とっておきの力」なわけです。

だからこそ、こうした「とっておきの力」を濫用してはいけない、と思うのですね。

何でもかんでも「気持ちで解決」させようとする考えに賛成できない理由がここにあります。

なんと言っても本来「気持ちの力」を発動させているのは「体の危険信号を無視している状態」ですからね。この力を発動させているうちは、多かれ少なかれ「体が壊れ続けている」状態です。できれば最低限に、できればここぞと言うときにだけ、使うべき力なんだと思うのです。

「気持ちの力」の効果は絶大だと思っています。

でもその危険性には目を向けずに、その力に多くを頼る、あるいはあたかもそれが「スポーツの本質」とでも言わんばかりの価値観(いわゆる根性論、精神論)に賛成しかねるのは、そうした理由からなのですね。

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