「男だろ」問題を考える

こんにちは、ランマニアです。

さて今回は当ブログ始まって以来の「危険な」かおりのするタイトルですね。

いや本当に燃えそうで危険な香りのするタイトル。

しかし今日は練習中にもうこれを書こうと決めてしまっていて、大体内容も練ってしまっていたのでもはや後には引けないのですね。

燃え上がった「男だろ」

一部のSNS界隈ではどうやらこの「男だろ」が相当に話題となり、一部炎上してしまったようなのです。

そしてそれに言及したブログや記事を引用したサイトまでが炎上あるいは賛否が分かれ、なかなか穏やかでない雰囲気に。

ランマニアもその最も話題となったライターさんのブログを見ましたが、まあ確かにジェンダー論やパワハラ論で論じれば「アウト」だろうし、それにツイートしている人たちの「当事者の問題」論や「外部の人間が何もわからずに何を言う」論もまあわからなくもなく。

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/79346?imp=0

おそらくこうした問題は結局どうしたって意見は分かれますし、「正論」を掲げれば常に「アウト」なのは間違い無いので、個人的にはそう言うことはその道の専門家がその世界で論じていればそれでいいと思っています。

好きか嫌いかで言えば嫌い

この際言ってしまうと、実はランマニアは学生時代から当監督(当時はコーチでしたか)は嫌いでした。

こんなランマニアも、高校時代は箱根駅伝に出場することを夢見て大学選びをし、当時の有力校は色々下調べをしていたのですね。

当時はネットなんかがなかった時代ですから、大学で競走部に入った先輩に各大学の雰囲気を聞いたり、「陸マガ」や「月陸」についてた「とじ込み付録」をみながら「ああ、なんかこの大学自由そうでいいなぁ」とか「うわ、こいつら全員丸刈りじゃん!」とか、そういう基準で大学選びをしていたものでした(結局それらの私立には行かなかったのですけどね)。

そんな「箱根特集」に載っている主要メンバーの集合写真の中で、ひときわおっかなそうなおっさん(いえ当時は結構若かったはず)が写っている大学がありました。

そうです、今回の主役「男だろ」の大学。

いやもうこの写真の雰囲気を見ただけで自分には合わない、そう断言できました(ランマニアの高校は非常に自由な校風で校則も制服もなく、陸上部も自分たちでメニューを考えて自主的に練習し、誰からも管理されていない非常に理想的な環境でした)。

そしてその後、監督となって箱根の中継では後方の監督車(運営管理車)から大声で怒鳴り散らす様子は、まあランマニアの最も嫌うタイプの監督のそれでしたね。

ランマニアは基本超自由人なので、「やらされる」「命令される」「怒られる」「強要される」のが大嫌いで(長距離ランナーに多そう)、そう言う雰囲気の陸上部は絶対に無理だったわけで(今も無理です)。

「応援効果」は間違いなく存在する

しかし一方で、あの「男だろ」によって最終区間のランナーが鼓舞され、持てる力を十二分に発揮できたことは自身の経験からも間違いはないところだと感じています。

簡単に言えば、人間が感じる「感覚」は全て「脳」で感じているわけで、走行中の呼吸の苦しさも脚の疲れも全ては「脳」が感じている感覚フィードバックです。

なのでその脳で感じているものを「麻痺」させてしまえば(ことの良し悪しは別として)走行中の苦しさや疲労を感じにくくなったり、あるいは全く感じずに走れてしまうことだってあるわけです(特に痛みなどはかなり「主観的な」感覚)。

ではどうすればそのように脳を「麻痺」させることができるかといえば、そう言う脳内物質を分泌させればいいわけで。

人間は、興奮したり緊張したり、あるいは極度の恐怖を感じたりした際には「情動反応」と言うものが引き起こされ、それによって脳は「戦闘態勢」に入るわけですね。

そうなると、脳は「敵を倒さなければ」と判断するわけですから、神経系の伝達スピードが速くなり(これが速く走ってるのに遅く感じる理由)、多少の苦痛は感じないように麻酔のような作用のある物質が分泌されたりするのです。

その辺りは過去記事を参照

こうなると人間は普段なら発揮できないようなパフォーマンスを発揮できてしまう状態に一時的に変化しますから、「思った以上の力」が発揮できたり「なんだかわからない力」がみなぎってきてしまうのです。

つまり、いかに「情動反応」を引き起こすかが鍵、であると。

実はこれをやったのがあの「男だろ」だった可能性が高いと、ランマニアは考えているのですね。

「男だろ」のどこに引っかかったか

ではなぜ「男だろ」と言われて彼(アンカーの学生)は興奮し、情動反応が引き起こされたのでしょう。

これにはまた複雑な心理的要因が絡んでいると考えています。

人間が「感情的」になる時(つまり情動反応が引き起こされる時)にその要因の一つとなるものに「自動思考」と言うものがあります。

これは簡単に言うと、人間の感情はその場の状況ではなく、その状況の「捉え方」によるものである、と言う考え方で、通常の熟慮する思考よりも瞬時に引き起こされ、半ば自動的に感情に結びついてしまう「思考」であるためそう呼ばれているのですね。

例えば、怖い上司のいる部署に遅刻してしまった場合、頭の中に瞬時に「絶対に怒られるはずだ」(まあほぼそうなりますが)という思考が沸き起こり、急激に不安や緊張感に苛まれますね。まあ万に一つの可能性しかありませんが、もしかするとその日は上司が機嫌がよく、「遅刻なんて誰でもあることだし事情があったならしょうがないだろう」と言ってくれる可能性があったとしても、「こうなるはずだ」と言う自動的な思考が頭に沸き起こってしまうのが人間です。

では、なぜこの「男だろ」が学生の「自動思考」を産み出し、瞬時に情動反応を引き起こしたのでしょう。

これには、「男だろ」の捉え方に大きな原因があったとランマニアは考えています。

日本では(諸外国ではどうかはよく知りませんが)古来より(どれくらい古来かわかりませんが)「男子たるもの」「男なら」「男のくせに」のような、いわば「男べき論」のようなものが根強く残った文化が存在していると考えています(現代ではそれもかなり薄まりつつありますが、依然としてかなり強く残っているとランマニアは解釈しています)。

例えば、ランマニアの物心のついた少年時代を振り返ってみても、「男はつらいよ」だとか、「男は、涙を、見せぬもの、見せぬもの」(機動戦士ガンダムエンディングテーマ)とか、「男坂」「魁!男塾」とか、まあとにかく「男」がどうたらこうたらと言う様々なコンテンツに囲まれて育ってきた背景がありますね、かなり小さい頃から。(しかし生物学的にはホルモンの関係で男性の方が骨格筋の量が多い訳ですから、その「腕力の強さ」が「精神的な強さ」を連想させてしまい「男は強い論」が生じてしまった可能性はありますが)

そこに描かれている、あるいはそこで論じようとしている「男像」と言うものは大概「男は強き者」と言う考え方で、その対義語に「女々しい」などという言葉があるくらい、「男子たるもの強くなければならぬ」の価値観に支配された世界でした。

当然小さな子供にはそうした世界観の是非などを論じる余地などあろうはずもなく、ただただ「おお、やっぱり男って強くなきゃな」とか「男は女よりも強いんだよな」とほぼほぼ自動的にそう考えてしまうような価値観が形成されていってしまったことはおおよそ疑いのない事実だろうと考えるわけで。

すると「男子」にはそうした価値観に基づいた「プライド」と言うものが形成されてくるのです。

「男は強いもの」だから、「弱いことは恥ずかしい」。「負けることは情けない(男だから)」といったプライドです。

そして、人間は「プライド」を傷つけられることに対して実は情動反応を引き起こしやすい生き物ですから、「お前男のくせに」と言う言われ方をされた途端に「自動思考」(ここでは「男は強くなければならない」「弱いのは男ではなく恥ずかしいことだ」)が生じ、プライドに抵触する危険性を感じ、一気に情動反応が起こるのですね。

で、ようやく辿り着きました。

学生はこうした心理的なメカニズムを経て(といってもほぼ一瞬)「おい、お前男だろ!」に対して情動反応が引き起こされ、内心「くっそー、やったるしかないわ!」と体がより一層「戦闘モード」に切り替わったのではないかと推測しています。

「男だろ」効果の真相は、実は「男像」に引っかかった「なにクソ根性」ではなく「感動」体験だったのではないか

今回の件で、実はランマニアが最も解せなかったのが、なぜ我々の子供くらいの世代の学生たちにこうした「男像」が存在していたかなのです。

「男だろ」発言の方には、実はあまり関心がなく、なぜこんな我々とは世代の差がある学生たちにも我々同様の「男像」が存在していたことの方に興味がありました。

この世代の学生たちの子供時代に「男塾」はなかったですし、ましてや「巨人の星」だって「古典」レベルの話で(「重いコンダラ」のギャグが通用しない)。

「男だろ」に引っかかり、そこから自動思考が引き出されるとは到底考えにくく。

そこで考えたのは、もしかしたらイマドキの学生たちは、もっと非常に純粋な気持ち、もっとポジティブなメカニズムで情動が刺激されたのでは、と言うこと。

「オオヤギ監督(あ、言っちゃった)がこんなに俺のことを応援してくれている」

「あの普段おっかない監督が、本気で俺に声をかけてくれている」

こうした、あまりにも「スペシャルな」体験が選手を大いに「感動」させ、その結果情動反応が引き起こされた、と言う仮説。

ここまでああだこうだ色々考えてきて、今何気に思い浮かんだこの仮説が一番しっくりくるなぁ、と感じているランマニア。

いや、そうに違いない。

だって、彼らの子供時代はスラムダンクだってもう厳しい世代。

なのに「男気」だの「男は涙を見せぬもの」だの、あろうはずがなく。

そもそも普段のインターバルから「男だろ!」って監督いつも言ってるよなあ、的な?

「男だろ!」を翻訳すると「ファイト!」だったりする?

ああ、大人は本当に勝手です。

ジェンダーだのパワハラだの勝利至上主義だの、「大人の理論」で考えすぎなんです。

なんのことはない、「男だろ」は「ファイト!」を「オオヤギ語」にしただけだった。

選手たちはおっかないオオヤギ監督から「ファイト!」って言ってくれたことに「感動」して、スイッチが入ったんです、きっと。

そう言うことにしておくと、今回の件は、比較的幸せな結末を見られる気がしてきました。


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