今こそ自覚的運動強度の出番なんじゃないか?

こんにちは、ランマニアです。

なんだか最近はトレーニングに関してよりも、疲労とか休養とかの話ばかりで「こんなのランのマニアじゃない!」とお叱りを受けそうです。

いや本当すみません。慢性疲労を抱えているランマニアは、どうしても常にそこに注意しておかないとトレーニングが継続できない体質で、気がつくとそっちにばかり目がいってしまうのですね。

ただですね、実はここ数ヶ月ある取り組みを続けていまして、それがなかなかうまくいっているのですよ。そうですね、もう昨年の11月頃からなので、かれこれ4ヶ月ほどになりますか。

ランマニアとしてはかなり異例なんですが、この4ヶ月、なんと、まったく調子が落ちてないんです。こんなことは、慢性疲労症候群を発症して以来では初めてのことで。

これまで、生真面目ランナーに属するランマニアは、やっぱりどうしても練習をやりたくなってしまう体質で、ポイント練(強度や負荷の高めの練習)とかもガンガン入れて、体をいじめたくなってしまう。

ですがそれをやってしまうと、必ず数日後あたりから急激に疲労感が増して、ジョグですらままならない状況に陥るのです。

こうなるともう、下手したら1ヶ月はまともな練習できません。日常生活だってだるくて仕方がないほど。これを、まあ数ヶ月単位で繰り返してきたわけです。

そしてその波がたまたま収まっているタイミングでレースに出るとベストが出たり、逆では撃沈したりで、非常に成績が安定しなかった。それこそ、数年に一度好調の波がやってきて、1年間社会人ベストを連発するなんていう年もありましたが、まあそれだって「今年は異常気象だ」くらいの稀な出来事で。

では何に取り組んでいるかといいますと、これまた話すのが恥ずかしいほど大したことではないのですが、要は「努力をしないで走る癖をつける」という取り組みです。

数日前に話題にした「頑張り」は「電力と同じ」という話に通じるのですが、まあとにかく「頑張らない」、「電気の出力を上げない」ということを徹底しているのです。

「努力しない」というのは、いわゆる学校のセンセイがいいそうな意味での「努力」ではなく、「心理的な努力」、ひらたくいえば「頑張り」のことです。

先日も書きましたが、我々ランナーは、極端な話、靴履いて道路に出れば勝手に走れるんです。歩こうと思ったって無理なほど、じれったくなって走り出してしまう。もうほぼ反射ですよ。前へ進もうとした途端軽くジョギングしてしまう。

ただしこれは疲れていない時

ランマニアの疲労症状が悪化した時などは、立っているのも億劫ですし、歩くのも面倒、走るなんてとんでもないほど。

だから、この「勝手に走り出すほどの調子」というのを体にしっかりと覚えさせ、この感覚がない時には練習をしない、と決めたのです。自分で「じゃあ、頑張って走るか」とか思わなくても、勝手に脚が進むくらいの状態。

非常に主観的で体感的な曖昧な感覚ですが、この感覚を大事にしてきました

そして、走り始めても「絶対に努力をしない」と決めてペースを抑えます

いや、もうペースなんてどうでもいいのです。自分の脚が勝手に動いてくれるだけ進めればそれでいい、それくらいの感覚です。

で、どういうことが起きるかというと、3日前のとても疲れていた日に同じようにジョグをした時は1km5分30秒を超えるようなペースになりました。ところが、今日だいぶ疲れが抜けて「楽だな」と感じる状態で同じように走ってみると、最高で1km4分30秒くらいまでペースが上がるのです。

心理的な努力の程度は、まったく同じです。どちらも、ペースを上げようとか、ちょっと頑張ろうとか、いっさい力を込めていません。脚が勝手に動くままに走りました。それでも疲労度によってこれだけペースが変わってくるのです。

これ何が言いたいかというと、いかに「心理的な努力」によって我々は疲労を抑え込んでいるか、ということなんです。

これをもし、タイムとかペースを基準に考えてしまうと、例えば「今日はキロ5分切れなかったから疲れてるな」とか「今日はキロ4分30秒まで上がったから調子がいい」というような判断をしてしまいます。

なぜそれがいけないかというと、ジョギング程度のペースって、ちょっとしたことで影響を受けやすいんです

疲れていても、「なんかレースのこと考えたらペース上がっちゃった」、とか、「時計見てたらあまりに遅いんでやばいと思った」とか、「気づかない程度の下り区間だった」とか、あるいは、そもそもキロ何分なんていう表現だって1kmの平均ペースなんです。1km走るうちにリアルタイムなペース変動だってかなりあるかもしれません。

そうするとですね、「たまたま」好条件が重なってキロ5分を切れたのかもしれませんし、悪条件が重なってもキロ4分30秒だったのかもしれません。

で、ランマニア、今日走りながらふと思い出したんです。

そういや、昔「自覚的運動強度(RPE)」なんてもんがあったな、と。

かつて学生時代にランマニアは運動生理学実験に携わることがあったのですが、その時に運動強度を測る指標としてこの「自覚的運動強度」という尺度を用いていたんですね。いや、今でも健康診断などで運動負荷試験などを行う際には普通に用いられている尺度です。

そしてこれがまた、なんていうかランマニア的にはですね、ちょーいい加減な(失礼)指標に思えて仕方がなかったんです。

なんせです、変な表に「きついー15」「楽であるー11」「かなりきついー17」「非常にきついー19」なんて書いてあって、被験者に「今どこですか?」とか聞いて「いま17です」とか言わせるわけです。正直ですね、17と19の違いはあんのかよ、とツッコミ入れたくなるほど。(RPEの名誉のために言っておきますが、一応多くの人の客観的指標(心拍数や血中乳酸濃度など)と照らし合わせて妥当性も検証されています)

しかし、実はいまランマニアが取り組んでいるのは、まさにこの自覚的運動強度のような指標を用いた強度調整なんじゃないか、とふと気づいたわけです。

例えば、3日前や今日のような疲労を抜くための軽いジョグでは、「絶対に努力しない」というかなり主観的な意識を持って走りました。自覚的な運動強度というよりは、「自覚的な頑張り度」でしょうか。

もし、自覚的頑張り度なるものがあれば、今日のジョグはたぶん「0〜2」くらいです。いや限りなく0に近い。言ってみれば「出力0」です。

では先週やったインターバルトレーニングは、自分の体にかかった負荷の強さはさておき、心理的な努力度、頑張り度はたぶんMAX20のうち18くらいは出した気がします。「出力18」。

これくらいの距離を走ったから自分には負荷がこれくらいかかった、とか、これくらいのタイムで走ったからこれくらいの負荷だろう、という考え方は、トレーニング効果を規定する上ではとても大切な考え方です。こうした客観的な数値(距離、ペースなど)によって強度をコントロールして伸ばしたい持久的能力に狙いを定めることは、長距離トレーニングの本質です。

一方で、疲れている時とそうでない時とでは、同じペースでも体にかかる負担はまったく別物です。同じことをしても、疲れている時の方が遥かに体に負担がかかっています(負荷ではなく負担ですね)。

ですから、非常に主観的で曖昧な概念ですが、「自身の心理的努力度」「頑張り度」「出力」といった自覚的な感覚を用いた練習強度調整は、タイムやペースに左右されない疲労や調子のコントロール方法として、ひとまずランマニア的にはうまくいっている気がするのです。

そして思うのです。「自覚的運動強度、意外とやるね」と。

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