「信じて走れば報われる」の謎

こんにちは、ランマニアです。

練習を再開して3日目。

今日は久しぶりにいつも走っている公園へいき、2月にファルトレクをやっていた芝生コースを気持ちよくジョグしてきました。

気温が低すぎず高すぎず、風も弱く、陽もまだ落ちる前で、本当に久しぶりに「走っていて気持ちいい」と感じられる時間を過ごすことができました。

今日は、そんな芝生の柔らかい感触を噛み締めながら(踏みしめながら)、ふと、タイトルのようなことを考えていたのですね。

信じて走れば報われる

長距離のトレーニングを続けている人なら、おそらく誰でも一度は感じたことのあることだと思いますが、なぜか不思議と、今取り組んでいる練習の効果を「信じて」継続していると、概ね良い結果が出てしまう、という現象。

逆に、こんなことやって意味あんのかよ、って思いながら継続した練習は、これまた不思議と効果が現れない、という現象。

ランマニアも、4年前にフルのベストを出した時は、正直、今あの時の練習を振り返ると全くトンチンカンな練習だったと思いますし、今なら疑心暗鬼で取り組んでしまうだろうな、と思われるような勘違い練習をしていたのですが(練習はレースペース命、みたいなところがありました)、当時は「絶対に速くなる!」って信じてやまなかったわけです。

その結果、それまでの自己ベストを4分も上回る大自己ベストを出すことができたのですね。「やっぱりオレのやってたことは正しかったんだ!」と正直してやったりですよ。

でもですね、やっぱりあの練習はあまりいい練習ではなかった、今はそう思っています。

そして、今、同じ練習を猜疑心を抱えながら継続しても、絶対に結果は出ないだろうな、と強く思うのです。

つまり、「信じて走れば報われる」は、やっぱり存在するんじゃないかと。

脳も含めた神経系と筋繊維までを「運動単位」として考えるならば

ではなぜ、「信じる」ことが大切なのか。

こんな、ちょっとオカルト的で、非科学的な論点は、このブログをずっと読んできていただいている方からすると、おいおいらしくないぞと思いますよね。

私自身、そう思います。

しかし、走りながら考えてみたのです。「信じる」こととはなんなのか、を。

そのヒントとなる概念が「運動単位」(motor unit)なのではないかと考えていたのですね。

大昔の記事で、筋繊維は運動神経に支配されていて、その神経に電気的な信号が送られることで筋収縮が生じて運動を行なっている、というようなことを書きました。

この神経系と筋繊維をまとめて「運動単位」と呼ぶことがあります。筋収縮は、神経系の働きを抜きには考えられない、ということなんですね。

運動神経は、途中脊髄の関与を受けているとはいえ、大元の指令は脳からの信号によって働くものです(この辺の話を深めようとすると相当マニアックな話になりますし、自分自身も理解しきれていない点も大いにあるのでここら辺で止めておきます)。

つまり、ざっくりいえば、「筋肉は脳によって収縮をコントロールされている」ということですね。

「信じない」状態は神経系が使えていない状態

さて、そこで初めの「信じる」理論に戻ってみます。「信じて練習する」とはどういう状態か。

これを考えるときに、わかりやすくイメージするために「信じずに練習をする」状態がどういうものかを想像してみようと思います(なんだか「帰無仮説を棄却する」みたいな)。

我々長距離ランナーのトレーニングの多くは、まあいってみれば「しんどい」練習が多くなりますよね。ジョグですら、終盤は疲れてきますし、もっというと疲れている時のジョグは初めからしんどい。

そういうときに、何を動機付けに我々は頑張りますか?

走った後のお酒、アイス。

いやいや、まあその通りですがそれをいったら今日の記事はここで終了になりますので、そうした外的要因ではなく、もう少し内的なものとして。

おそらく、多くの人は、「この練習は意味があるに違いない」「この練習をやることで強くなるに違いない」と「信じて」走るわけです。

これをもし、「信じない」ということになれば、どういう状況で走ることになるでしょうか。

「こんな練習意味あんのかよ」(ああ、これ、高校の部活とかでありそう)

「こんなに頑張ったってなんのいいこともないだろうに」

まあ、概ねこんな心理状態ですよね。

そしてその状態で、あのめちゃくちゃキッツいインターバルをやることを想像してみてください。

そりゃ当然、「これやり切って強くなるぞ」と思って走るよりは、遥かにタイムは落ちると思いませんか?

いや落ちますよ、当然。動機付けが低い、つまりやる気がないわけですから。

つまり、「信じないで」走ることは、「低い動機付け」で走ることとほぼ同義なのではないかと思うのですね。

そして、以前の記事の、筋収縮の出力は電気的信号の強さに依存している、つまり「やる気」とか「動機付け」とか比較的「情動」の影響も受けてるみたいな話に戻ると、結局「動機付けの低い状態で走れば、神経系もしっかり働かずに走る」ことになるわけです。

「信じないで走る」=「低い動機付けで走る」=「神経系の働きが鈍い」

という仮説です。

「信じて走る」は「高い動機付けで走る」こと

こうして整理してみると、その逆の「信じて走る」状態がどのような状態かは一目瞭然ですね。

そうなんです、「この練習は必ず身を結ぶ」「この練習をこなせば強くなれる」と「信じて」走ることは、非常に「高い動機付け」で、かつ「高い集中力」を維持して(つまり覚醒水準も高い)走ることにつながり、それは結果的に「神経系の働きを活発にする」ことになるのですね。

こうして、毎日の練習を「信じて」続けるのか、「信じないで」続けるのかでは、年間通して何百回と練習していれば、そりゃ大きな差になっていくわけですよ。

これが、「信じて走れば報われる」の、非常に大雑把な科学的背景なんじゃないか、と今日の45分ジョグで考えていたのですね。

まあ、なんのエビデンスもないのですけど。

ですが、こういうことは、意外と科学的に解明されすぎて、答えが簡単にわかってしまっても面白くないもので、こうしてああだこうだ考えている時が一番楽しいな、とも思っています。

そしてもちろん、「絶対に間違ってる練習」を「信じ切って」継続しても、決して強くはならないとは思いますね。(そもそも絶対に間違ってる練習を「信じて」走るのは想像難しい)

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