「頑張り」の正体は「電気」なんじゃないか、と

こんにちは、今日もぼっち練のランマニアです。

実は今日も山へ行ってしまったのですよ、山へ。

山は空気が綺麗だし(ウィルスもいない)空も青いし、今日は春みたいだしで、まあとにかく控えめに言って「最高」でした。

山の話は次回に回すとして、実は昨日の段階で今日どうなるかはちょっと微妙な状態でした。

昨日はあえて大袈裟には書きませんでしたが、ここ数週間では最も疲労症状が悪化していて、これは長期休養が必要なパターンかな、と若干凹んでいたのでした。

ところが今朝起きると、昨日のダルさが嘘のように体がすっきりと軽くなり、だいぶリセットされた感覚が得られました。

こういうのは、本当に感覚的なものなので正直判断は難しいのですが、ランマニアが長年付き合ってきた疲労感へのセンサーはだいぶ正確になってきていて、「これはダメそう」「これは平気」という判断をわりと的確に出せるようになってきました

で、今日は大丈夫だろう、と。

大丈夫になった要因もある程度押さえていて、それは多分昨日、一昨日の練習によるものだと推測しています。

ランマニアがいつも「疲労」「疲労」と言っているのは、自分の中では「筋の疲労」ではなく「神経系の疲労」のことです。

疲労自体がまだまだ解明されていないことだらけなので、自分自身の仮説や推測もあやふやなんですが、体感的には筋疲労というよりは、そこへ情報を送っている神経系がうまく働かなくなっている感覚があるのです。

みなさんも、実験か何かでカエルやマウスの脚の筋肉に電気刺激を送ると、死んでいる状態でも脚が電気の入力によって勝手に動くのを見たことがあると思います。

人間の筋収縮も基本的には同じ原理で、筋につながっている神経系が電気的に興奮して神経伝達物質を筋に送り込むことで筋が収縮するようになっています。

で、この電気信号のそもそもの始まりは脳からで、我々は脳で脚を「動かそう」と「意識する」ことで筋が収縮して走り出すことができるのです。そしてこの「意識」の強さが「頑張り」とか「心的な努力」の正体なわけです。

つまり、「頑張り」は「電気の強さ」とも言い換えることができます。

筋そのものが疲れてくると、脳からは「もっと頑張れ」とたくさんの電気的な信号を神経を通じて筋繊維に送り込んで動かそうとします。そうすると、だんだんと神経細胞そのものも疲労(酸化)してくるという仮説があります。そして、ランマニアの疲労は実はこの神経系の疲労なのではないか、という仮説に、今のところ行きついているわけです。

で、なんだか前置きがめちゃくちゃ長くなってしまいましたが、そういう前提があるので、昨日、一昨日は、ランマニアは意識してこの「電気の強さ」を極力弱めて走ってみたのです。

人間は、半ば反射的に歩いたり、走ったりする動きができる生き物です。

ですから、特に疲れてなければ意識しなくても勝手に歩けますし、我々ランナーのように筋力がある人ならば、勝手に脚が動いているんじゃないかと思うほどほど楽に走れてしまいます。

昨日、一昨日のランマニアも、特に「頑張ら」なくても動くくらいのペースに抑えて練習をしました。もうタイムなど気にしません。脚が勝手に動くだけのペースです。

そりゃあもうとんでもない遅いペースです。キロ6分とか5分半とか。

でも、正直ペースなんてどうでもいいのです。とにかく電気信号を控えめにして神経を休ませたかったのですから。

ランマニアは経験的に「この頑張りはやばい頑張り」というのが自分の中では大体わかっていて、それは「疲れているのに無理してペースを維持している頑張り」です。

この2日間は、そのゾーンに入らないよう、常に気持ちをコントロールしていました。

おそらくそれが今日の回復につながったものと考えています。

まあでも、この理屈はすべて推測と体感的なものです。本当は違うかもしれません。しかし、正直だれもこの疲労感の正体を目で見ることはできないのであれば、自分の感覚でコントロールするしかないわけで、それを解明されている事実と自身の知識とで解釈するしかいんだろうな、と。

結果、今日は体も回復して山へ行けました。

ひとまず、「電気の出力」をコントロールした結果と捉えておくことにします。

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