こんにちは、ランマニアです。
結局、通常のジョグを続けている以上はふくらはぎの状態は膠着状態になってしまい、ヘタをすると周辺部にまで損傷が広がりかねないため、ここで思い切って負荷を下げることにしました。
当初冗談めいて「ラスボス」だと表現していた関所マラソンは、まさしく2020年のラスボスとなったわけです。
しかし、レースでベストを出す(あるいは取り組んだ練習の成果を出す)ために練習を積んでいるわけですから、結果的に故障をしてしまうことがあっても、「レースに出ない」と言う選択肢はある意味本末転倒になってしまうのですね。
しかも、今回の関所マラソンは、いわゆる「練習の一貫」として出たわけではなく、そこそこの記録を狙って走ったわけですので、ここで一旦小休止を強いられること自体は、タイミング的には悪いことではなかったと考えています。
「高強度練習こそが練習の本質」と勘違いしていた過去
さて今日はTwitterで、「強度の高い練習は人気があるが、長い目で見れば地味で効果の発現に時間のかかるジョグなどの有酸素トレーニングこそがまずは取り組むべき練習である」といったツイートを巡って大変有意義な議論ができたのですね。
おそらく、そこそこのレベルで競技に取り組んだことのあるランナーなら、誰でも一度は経験したであろう「高強度練習のやりすぎによる失敗」。
ランマニアも、学生時代は「失敗」とまではいかないまでも、「強度の高い練習こそが練習の本質」とばかりに、そうした練習を追うことに拘っていた過去があります。
ではなぜ、こうした価値観に陥ってしまうのでしょうか。
人は「満足の遅延」が苦手
ランマニアが自身の経験上推測するのは、得られる報酬、満足感が、割と即時的であることが関係しているのではないか、と考えています。
人の行動は、その行為の後に得られる「報酬」(この場合はご褒美や金銭的な報酬に限らず、例えば目的の効果であったり、気分の高揚、満足感など心理的なものも含まれます)によって頻度が左右されると言われています。
当然、その報酬の大きさはとても大きな要因ですが、他にも「報酬が得られるまでの時間」も大きく関係しているようです。
つまり、「すぐに得られる報酬」「すぐに得られる満足」に対しては、人は比較的良く行動すると言うことですね。
逆に言えば、「満足が遅延」されると、どうしてもその行動は定着しにくくなる傾向があると言うことです。
と考えれば、比較的早期に効果の得られる「インターバル」や「レペティション」のような高強度の練習は、報酬(満足)もすぐに得られやすいことから、行動としては定着しやすい、頻度が高まりやすいと言えそうです。
一方で、ジョグやLSDのような、それをやったからといって翌日や数日後に明確な走力の向上などが体感できない(満足が得られない)練習は、かなり後になってから「効いて」来るため、その効果を体感するまで「報酬」を得られず行動も定着しづらい(あるいは価値を置きづらい)のではないか、と考えています。
脚が痛いのに走る、も同じメカニズム
さらに、今回のランマニアのように「怪我をしてるのになぜ走る?」についても、同様の心理的なメカニズムではないか、と。
「走らず休む」と言う行為は、一回それをしただけでは怪我が治るわけではなく、それを数日、あるいは数週間続けてようやく怪我が回復するわけで、まさしく「満足が遅延」されることに。
一方、「痛いのに走る」のは、走るのは楽しいし、「練習した」という満足感はすぐに得られますから、「ついつい」やってしまうのですね。つまり、すぐに得られる報酬なわけです。
「満足の遅延」が苦手な私たちは、この二つの条件が重なって「痛いのに走る」結果となるのではないかなぁ、と。
痛い目に遭って行動が修正される
ところで、あまり望ましいパターンではないですが、人は「痛い目」に遭うことでもその行動が変化します。
「走ったら脚が痛んだ」
「インターバルをしたら怪我をした」
など、その行為の後、比較的速やかに「痛い目」に遭うと、その行為の頻度は急速に低下します。
今回のランマニアがまさにそうで、「ちょっとペース上げてみようかな」と調子に乗って走ったところ即刻「あ、痛いかも」となったわけです。
即、その行動は停止、ですよね。
ですが、この「痛い目に遭って行動が止む」と言うのは本当は低次な行動の修正法で、理想を言えば、しっかりと「満足の遅延」を我慢して、意図的・計画的に行動を修正できる方が高次であるし「オトナ」なわけです(もうおっさんなんだし)。
わかっちゃいるけどやめられない。
これはランナーにおける永遠のテーマかもしれません。