誰に習ったわけでもなく走れる私たち

こんにちは、ランマニアです。

ここ最近、ポイント練から次のポイント練までの間は、できるだけ疲労を取るためのゆっくりとしたジョグを続けています。

何度も繰り返している、「出力0」「努力度0」のジョグ、というやつです。

しかし、この感覚がイマイチ伝わりにくい表現だな、というのはずっと思っていて、ランマニアは今日もだらだら走りながら、そのことについてどう表現すれば伝わるかな、と考えていたところです。

走ってるんだから、努力度0とかそんなことあり得ないだろ、と、たぶん思われてるだろうな、と。

確かにですね、厳密にいうと0はないんです。0なら、なにもしてない状態ですからね。

そこでどんな状況を考えれば、その感覚を想像しやすいかなと色々頭に思い浮かべていて、今日たまたま下り坂を走っている時に、それを思いついたのです。

みなさんも、少し急な下り坂に差し掛かると、たぶん多くの人は脚が勝手に動いていくと思うんです。そりゃそうですよね、脚が動かなければ、そのまま転んで転がっていってしまいますからね。

じゃあ、なぜ、脚が勝手に動いて、走動作が自然と生まれるのでしょう。

これは、人間が二足歩行の動物で、もうそうやって歩いたり走ったりすることを前提として生まれてくるからですね。生まれた時から(いや、生まれる前から)人間の脳に組み込まれたプログラムなんです。

生まれてきた赤ん坊が、誰に教わったわけでもなく、いつのまにか立ち上がって、自然と二本の脚を交互に動かして歩けるようになりますよね(走れるようになりますよね)。赤ん坊が教わってもないことが自然とできるようになるのは、体の仕組みとしてプログラムされているからです(音に反応する、光に反応するなどもそうです)。

ですから、人間が前に進むための方法は、誰に教わったわけでもなく、みな共通にこの方法を自然と習得するのです。

ですから、重力が働いて、体が勝手に前に倒れそうになると、本当は色々な方法があってもいいのでしょうが、人間は誰でも自然と、この前に進む方法を用いて転ばないように歩を進めるわけですね(身体機能が衰えてきた老人などは別ですが)。

ランマニアは、基本的にこの原理が「走る」動作の原点であると考えています(というかそういう教え方をするスポーツバイオメカニクスの専門家がいます)。

しかし、この理論だけでは、下り坂とはいえ「勝手に進む」ことを説明することにはなりません。

例えば、もし下り坂で前に倒れ込んだ際、片足を着地した時に、どうしてそのまま倒れたり転げたりしないのでしょう。

それは、筋肉が骨を覆っているからです。

もし骨格だけで坂を下れば、そのまま前に倒れ込んでしまうでしょうが、そこを筋肉が防いでくれているのです。

ではどうしてそれが「勝手に進む」ことと関係しているのかといえば、筋肉は「引き伸ばされると勝手に収縮する仕組み」を持ち合わせているからなんです。

これもネット上にわんさかあふれてますから調べてもらうといいのですが、筋肉には「筋紡錘」とか「腱紡錘」とかいうセンサーみたいなものが備わっているのですね。

このうち「筋紡錘」は筋の長さを感知するセンサーで、これが「伸ばされた」と感知すると、脊髄にある神経に情報を送って「勝手に筋を収縮させる」命令が送られるようになっているのです。いわゆる「反射」というやつですね。

この「反射」という仕組みは、脳を経由せずに「不随意的(意図せず)」に筋を収縮させることができるため、自分の意思とは無関係な筋収縮なわけです。

つまり、「意図せず筋力を発揮できてしまう」わけです。

こうした筋の「伸長反射」は、特に重力に逆らう時に発揮する筋(抗重力筋)で起こりやすく、「下り坂を走る」などはまさにそうした状況なわけです。

さあ、勘の良い方ならそろそろお分かりかと思いますが、この伸長反射による筋収縮は、「脳からの指令は0」、つまりランマニアがよく言っている「脳からの出力0」で発揮できる筋収縮と言い換えることができます。

そうなんです。ランマニアが常々「できるだけ頑張らない、できるだけ出力0」と言っているのは、この人間の体の仕組みとして備わっている「脳からの指令なしで筋を収縮させる仕組み」を意識することだったのです。

そして、前述の、人間がほぼ反射的にとってしまう「歩行動作」「走動作」の関係を加えて、

勝手に歩行(走行)動作を取ろうとする仕組み

勝手に筋収縮を発揮する仕組み

とを、うまく利用しながら前に進む(走る)意識のことだったのです。

この二つの力をできるだけ借りながら走る意識が「出力0」というわけです。

ところが、当然これは「下り坂」に限った話で、通常の平坦な道や、ましてや登り坂などではこんな「出力0」なんて、自分で言うのもなんですが、ありえません。

ですが、軽い下り坂ならほぼこの仕組みを利用できますし、平坦路でも体を前に倒そうとすれば勝手に脚が出ますから、そのまま脚を着地するだけで、「ある程度は」伸長反射が起こり、反力を補うことができるわけです。で、足りない分は「自分の意思」、つまり「努力」で筋力を発揮し前へ進もうとするのです。

そしてこの「努力」の部分を調整しながらペースをコントロールするわけです。「出力を変える」というのは、つまりはこういうことです。

では、この前のペース走の後のように筋が極度に疲労していたり、あるいは微細な損傷が起こっていたりするときはどうでしょう。

ここはランマニアの想像なのですが、こうした伸長反射によって発揮される筋力がだいぶ低下してる(動員できる筋肉と神経の単位が減っている)のではないかと考えるのです。

だから同じ「脳からの出力0」では、元気な時と同じような筋力は発揮されず、より「努力」の部分に頼らなければ前に進まなくなるのではないかと考えています。

そして、そのように疲労している状態で、無理に脳から強い指令(出力)を出して筋を収縮しようとすれば、疲労している筋にもダメージが加わるだけでなく、高出力を加え続けられる「神経系」(電気が流れるリード線みたいなもの)にもダメージが出るのではないかとも考えています。

ランマニアが疲れを取る時に常に「出力0」を意識するのは、こうした理屈からなのです。

「今は速くならなくてもいい」

こんにちは、ランマニアです。

昨日自己最長距離のペース走を行なって、今日はどうなってしまうかと戦々恐々としていたところ、思ったよりも元気なので拍子抜けしています。

ですがね、こういう時が一番危険なのですよ。

前にも話しましたが、結構脚にはダメージがあるにもかかわらず、脳が元気、みたいなギャップがある時期なんです、翌日は。だから、ここはもうこの脳からの「暗黒面」への誘惑に負けてはいけない時期です。

絶対に走らない

さて、もうブログで何回も書きましたが、ランマニアはとにかく今の調子の良さをできるだけ長く維持したいと考えています。

昨日の30kmペース走でも、ほどほどの疲労感でやめておいたので、たぶんしっかり休めばまた来週もいけるでしょう。

このサイクルを、しつこいようですがとにかく維持なんです。

ちょうどいま、当分試合がないこともあって、変な話、練習しながら「今は別に速くならなくてもいいかな」って思いながら練習している自分がいます。

今は速くならなくてもいいから、これ以上無理はしない

今は速くならなくてもいいから、やれそうにないことにはチャレンジしない

今は速くならなくてもいいから、物足りないくらいでやめておく

この毎日ですね。

「速くならなくてもいい」と思うと、先に練習メニュー決めて「それをなんとしてもこなさなきゃ」がなくなってきます。

確かに、来週は閾値走やろう、とかインターバルやろう、とかおおまかな予定はあるのです。

でも、例えば、前日とかの調子で、「う〜ん、明日は3本でいいかな」とか「いけそうだから30kmチャレンジするか」といった具合に調子に合わせてメニュー組んでいる状態です。(これはぼっち練の最大の恩恵ですね。)

なぜそんなにおおらかでいられるかと言えば、やっぱり「今は速くならなくていい」と思ってるからですね。

今はまだいいのです。今はまだ、毎週のポイント練をこなせる程度で。

ですが、そんなことを言っても、心の奥底の奥底では、「こうやって『今は速くならなくていい』なんて練習していたら、もしかして速くなったりするんかな・・・」とか囁いている悪いランマニアもいるんですが。

こいつが暗黒面の正体です。

曖昧な概念を具体化してみました

こんにちは、ランマニアです。

ランマニアは、今日ついに30kmペース走をやってみたんですよ。実は、これランマニアにとっては初めてのことなんです。

これまで、レースでは当然42kmを走っていますし、ジョグならそれくらいの距離は何度もあります。しかし、ダニエルズさんの理論で言われているマラソンペースでの練習では最長なんですね。

このマラソンペースでの練習は、マラソンのトレーニングの中では重要なトレーニングの一つとして考えられており、本来はもう少し頻繁に取り入れなければならないのですが、比較的長い距離、時間が必要となることから、それを確保できる時間や体調を調整しなければならない点で、ランマニア的には若干ハードルの高い練習かなと思っています。

なのでこの手の練習は、よほど調子の良い時でないと、ランマニア的には遂行不能なわけですね。

しかし、以前も話した通り、今ランマニアは体調維持が非常にうまくいっていて、今ならやれるんじゃないかと考えたわけです。

そこで今日は、1周1050mのタータンコースがある公園で、ぐるぐるぐるぐると、気が遠くなるような練習を敢行したのです。

本来このペース走は、ダニエルズのVDOTではMペースと呼ばれるゾーンで行わなければならないのですが、今日はなんとか30kmを達成したい、という自己満足的な目的があったので、スタートから無理にペースは設定せず、「これなら30kmはもつ」という努力度(後で説明します)でペースを維持しました。

その結果、だいたい1kmあたり4分一桁から3分58秒くらいのペースで推移しました。

そして、結論から言いますと、おおむねそのペースを維持したまま、最終的に2時間1分40秒くらいでなんとかゴールすることができました。まあ、ひとまず目標達成です。

しかし今回はちょっとある試みをしてみたんです。

先日、自分がペースを維持する時に「どれくらいの努力感」でそのペースを作っているか、ということを常に意識して走る、という話をしましたが、その「自覚的努力感」を今日の30km中、ずーっとモニタリングして走った、ということです。

ちょっと話はそれますが、その例の「自覚的運動強度(Rate of Perceived Exertion)」を直訳すると、ランマニアが定義した言葉とそのまま同じ「自覚的努力感(exertion=努力)」になってしまうんですね。ですから、本来のこのRPEって、ランマニアが想定しているような「心的な努力」のことについて測りたかったのではないのかな、と思ったりもするわけですね。実際の健康診断なんかでの使われ方をみていると「今のしんどさは?」っていう印象ですから、ニュアンスとしてどうなんだろう、と。

で、今日もそうなんですが、ランマニアが意識したい「ペースを維持する際の心的な努力」というのは、「きつさ」とかとはちょっと違うんです。これ、ランナーにしかわからない感覚だと思うんですが、あるペースを維持したり上げたりするときって、ちょっと「頑張る」わけじゃないですか。

その「頑張り」って厳密にいうと「きつさ」とは微妙に違うというか。別にきついわけではなく、意識を集中しなければならないというか、う〜ん、やっぱり「努力」なわけですよね。ランマニア的には「出力を調整する」っていう表現が自分としてはしっくりくるんですけどね。

なので、ランマニア的にはここは明確に分けるために、もう一つの「努力」を示す英語として「effort」を用いようと思います(こっちもEで紛らわしい!)。

なので、ランマニア的に定義した「自覚的努力度」は「RPEffort」と表記します。

そして、今日の30km走行中、1kmごとのラップとRPEffortとを重ねたグラフがこれになります。

折れ線グラフがラップ(秒)ですが、下に行くほど速いことになります。また、RPEffortはMAX20で考えています。

まあ、「自覚的」ですから、自分の体感的な「努力度」なんて非常に曖昧なんですが、このグラフで面白いのは、いったんペースが上がってからRPEffortが下がる時間帯があるってことですね。

特に、序盤はまだ体が目覚めてなく、心臓も動きにくいこともあり、ペース作るのにちょっと力入れなければならないのですが、体が温まり出すと、同じペースでも意識しなくても勝手に維持できるんですよね。

これ、多分レース中はこれよりももっと速いペースでもRPEffortが4とか5の時間帯が多くなると思います。理由は昨日書いた通りです。興奮して麻痺するんですね。

で、今回ランマニアが特に着目したいのは、最後の4〜5kmで急速にRPEffortが上昇している部分です。

この部分は呼吸がキツくてこうなってるんじゃなく(元祖RPEはそっちの意味合いが強いですよね)、とにかく「頑張らないと」脚が動いてくれない、っていう感覚です。マラソンやったことのあるかたならよくイメージできると思います。

なぜ着目したいかというと、ランマニアにとって、この時間帯が長いと疲労が抜けにくくなるんじゃないか、って想像しているんです。

この時間帯って、もちろん筋が疲労したりダメージを受けたりしているんだと思いますが、それを動かそうと「神経系」もかなり頑張っちゃってるんですよ。「動け動け!」って。

ランマニアの慢性疲労が神経系の疲労だとすると、こういう「努力感」の強い時間帯が続くと疲労症状が急速に悪化するわけですね。

今日の最後の4、5kmはランマニア的に相当負担がかかったと思っています。

で、今後長期的にこれをモニタリングしていこうと思っているのですが、もしこのRPEffortが15を超える前に練習やめておくとどうなるか、っていうのもちょっと検証したいな、と。

たぶん、調子の良い状態は保てると思うんです。

でも、トレーニング効果はどれほど望めるのか、というのが重要です。

インターバルにせよ、レぺにせよ、閾値走にせよ、全部この努力度の15くらいでやめてしまう。そしたらどうなるか、ランマニア的には大変興味深く思っています(インターバルやレぺが果たして努力度15以内で収まるかは疑問ですが)。

こんな練習で正気か?と思われそうですが、実はランマニアは結構本気で今から2時間35分を切ろうと目論んでいます

それには慢性疲労症状をいかに抑えながら練習を継続するかがポイントだと思っていまして、そのためにこの方法はどうだろう、と考えているのです。

オーバーペースの心理学

こんにちは、ランマニアです。

ランナーなら誰しも経験があるオーバーペース。

オーバーペースの定義って難しいですが、例えば、レースの後半の方がペースが上がる「ネガティブスプリット」以外は全部オーバーペース、と言ってしまうのは少し乱暴な気がします。

例えば、フルマラソンなどは日本記録が出るときさえもネガティブスプリットとはいかないですからね。日本記録が出てもオーバーペースと言うのはやはり語弊があると思います。

とはいえ、ランナーの皆さんなら、オーバーペースと言えば「ああ、ああ言う状態でしょ」と言う共通認識はありますよね。もう思い出したくもないあのレース終盤の悲惨な状況。惨状

ランマニアが自覚しているオーバペースレースで最も古いものは、高校1年生でのデビュー戦5000mです。

中学まではレースで走ってもせいぜい3000mでしたから5000mなんて未知の世界だったわけです。しかも、長距離のなんたるやも全くわかっていない勘違い野郎

初レースで張り切っていたのでしょう。スタート直後から猛烈ダッシュですよ。多分ですね、100mのベストタイムより100mの通過は速かった気がします。

ですが、それでも意外と持つんですね。うっすらですが2000mくらいまでは「これいけんじゃね」って思ってた記憶があります。

しかし、様相が激変したのは3000m過ぎです。

呼吸が猛烈に苦しくなり、顎が上がり、脚がピタリと止まったのです。若かりしランマニアには訳がわかりません。まさに「なんじゃこりゃぁ〜」です。

そしてもうそこからは皆さんのご想像通り。まあひどい走りです。ジョグですよジョグ。後続の選手たちに、まるでランマニアが電柱に見えるほど豪快に抜かれ続けます。

タイムは16分50秒切るくらいだったでしょうか。100mをベストで通過しながらこのタイムですから、いかに終盤ペースが落ち込んだかがよくわかります。

これが皆さんの想像するオーバペースですね。

さて、これはランマニアの若気の至りで済まされますが、実は大学でも社会人になっても、そしてこんなおっさんになっても、こうしたオーバーペースの失敗って、程度の差あれ数年に一度やらかします。学習しろよ、って思うんですが、いまだにやらかします。去年などはスカイレースですらやらかしました。

オーバーペースは、「そのレースの距離を走り切るためにあきらかに相応しくないエネルギー供給系を序盤に使って走るペースのこと」、だと思っています。

マラソンレースなら5000mとか10000mのペース、5000mレースなら800mとかのペース、です。

マラソンのような比較的長い距離におけるオーバーペースと、5000mくらいの短めの距離におけるレースペースでは、その生理学的な機序はやや異なると思います。しかし、いずれも序盤の「速すぎるペース」がたたって後半に大失速するという状況は共通しています。

こうした体内で起こっている生理学的な変化は体内の仕組みですから、一度そうなってしまうともう自分の力ではどうにもできない現象です。

しかし、「速いペースで突っ込む」という「状況」は、ある意味自身の意思や判断によって作り出された「状況」ですので、これはコントロール可能な心理的な問題です。

そこで、今回ランマニアは、こうした状況が起こってしまう心理学的観点から、人がオーバペースに陥るメカニズムを解明しようと試みました。

なぜ人はオーバーペースで突っ込むのか

この状況を考えるにあたり、抑えておきたいのが人間の脳のメカニズムです。

人間とて動物の一種ですから、脳の中には人間が進化の過程で人間になる前から備わっている、古い脳の領域があります。それが中学や高校で学んだ記憶があると思いますが、大脳の「辺縁系」という部位です。

この辺縁系には人の動物としての本能的な欲求や感情(情動)が生起する部分があり、そこが興奮すると、人間といえども「動物」と化してしまいます

腹が減る、眠りたい、恐怖を感じる、攻撃したい、逃げ出したい、といった感情や欲求が生起した状態です。

そして、ランナーにもそうした動物と化してしまう瞬間があると、ランマニアは考えています。

それが、スタート前、スタートする瞬間です。

人間は動物だった頃の名残で、恐怖を感じたり、脅かされる存在(外敵)に遭遇した際には、辺縁系にある「扁桃体」という部分が急激に興奮するようにできています。

ここが興奮すると、人間(動物はすべて)は「闘争か逃走」の反応が引き起こされます。つまり、交感神経が優位となり、瞬時に「戦闘モード」に切り替わるのです。

交感神経が優位になると、心拍数が上昇し、瞳孔が開き、手のひらに汗をかき、神経系の伝達スピードがマックスになります。もう、自身の身体的機能を最大限に発揮するためにフル機能が発現するのです(古い話ではスーパーサイヤ人みたいなもんです)。

長距離レースも含め、スポーツは「擬似的な戦闘体験」です。長距離は自分のタイムとの競争だとはいえ、スタート時に他のランナーに囲まれれば自然と彼らは「敵」と脳は判断してしまいます。敵を前にして「相手に勝つ」というのは本能的な習性です。

さあ、ランナーの多くはこうしたスタート前にはたいがい緊張するものです。この緊張感こそ、扁桃体の「情動反応」で、「闘争逃走反応」が引き起こされている状態です。

つまり、スタート前のランナーは、すぐにでも身体機能を総動員して敵に勝つ(あるいは逃げ切る)準備が完了した状態なのです。「かかってこんかい!」の状態です。

この闘争逃走反応の目的は、とにかく「その場を凌いで」生きながらえることです。敵を倒すか逃げ切るか。その場さえ凌げればいいのです

しかしどうでしょう。長距離種目は、その場さえ凌げば良いわけではありません。10000mでさえ30分以上、マラソンなんぞは3時間近くです。

つまりランナーは、体は「その場しのぎの臨戦態勢」になっているにもかかわらず、レース自体はそうではない、というギャップが生じていることになります。

これこそが、オーバーペースの原因なのではないかとランマニアは考えてみたのです。

その場しのぎの臨戦態勢でスタートを切って走り出したことを想像してみてください。近所の野良猫が、こちらの気配に気付いて一目散に逃げ出すような状態です。

もう迷わず、全開走行ですよね。

LT超えないようにとか、有酸素性糖代謝をできるだけ使いながら、などと、そんな悠長なことを考えている暇はありません敵は目の前にいるのですから。

その状態でスタートを切って走り出してしまった状態が、オーバーペースなわけです。いや、マラソンだからオーバーペースですが、人間が生き残るための行動としては至極当然な適応的な行動です。

つまり、本来は人間としてまっとうな反応なんですが、長距離種目という人間が勝手に決めたスポーツルール上ではオーバーペース、という概念にあてはまるということなんだろう、と。

では人間はそうした本能のまま行動してしまうかというと、決してそうではありません

脳にはもう一つ前頭前野と呼ばれる、扁桃体の反応を制御する部分があります。人間が生活する上で、自身の欲求や感情を抑えて社会的に適応するために働く部分です。

オーバーペースに陥らないランナーは、この前頭前野をしっかり働かせて、みずからの闘争逃走反応をうまく制御していると考えられます。

「本当は、スタートから全開で走ってしまいそう」、「でも、ここは終盤に備えてしっかりペースを押さえるんだ」というように。

ようやくここでランマニア的に解明できました。

オーバーペースは本来持っている人間の反応によるもの

それを防げる人は、しっかり前頭前野を働かせて走れる人

では、前頭前野をうまく働かせるには?

これもひじょーに長くなるので、また別の機会で。

今こそ自覚的運動強度の出番なんじゃないか?

こんにちは、ランマニアです。

なんだか最近はトレーニングに関してよりも、疲労とか休養とかの話ばかりで「こんなのランのマニアじゃない!」とお叱りを受けそうです。

いや本当すみません。慢性疲労を抱えているランマニアは、どうしても常にそこに注意しておかないとトレーニングが継続できない体質で、気がつくとそっちにばかり目がいってしまうのですね。

ただですね、実はここ数ヶ月ある取り組みを続けていまして、それがなかなかうまくいっているのですよ。そうですね、もう昨年の11月頃からなので、かれこれ4ヶ月ほどになりますか。

ランマニアとしてはかなり異例なんですが、この4ヶ月、なんと、まったく調子が落ちてないんです。こんなことは、慢性疲労症候群を発症して以来では初めてのことで。

これまで、生真面目ランナーに属するランマニアは、やっぱりどうしても練習をやりたくなってしまう体質で、ポイント練(強度や負荷の高めの練習)とかもガンガン入れて、体をいじめたくなってしまう。

ですがそれをやってしまうと、必ず数日後あたりから急激に疲労感が増して、ジョグですらままならない状況に陥るのです。

こうなるともう、下手したら1ヶ月はまともな練習できません。日常生活だってだるくて仕方がないほど。これを、まあ数ヶ月単位で繰り返してきたわけです。

そしてその波がたまたま収まっているタイミングでレースに出るとベストが出たり、逆では撃沈したりで、非常に成績が安定しなかった。それこそ、数年に一度好調の波がやってきて、1年間社会人ベストを連発するなんていう年もありましたが、まあそれだって「今年は異常気象だ」くらいの稀な出来事で。

では何に取り組んでいるかといいますと、これまた話すのが恥ずかしいほど大したことではないのですが、要は「努力をしないで走る癖をつける」という取り組みです。

数日前に話題にした「頑張り」は「電力と同じ」という話に通じるのですが、まあとにかく「頑張らない」、「電気の出力を上げない」ということを徹底しているのです。

「努力しない」というのは、いわゆる学校のセンセイがいいそうな意味での「努力」ではなく、「心理的な努力」、ひらたくいえば「頑張り」のことです。

先日も書きましたが、我々ランナーは、極端な話、靴履いて道路に出れば勝手に走れるんです。歩こうと思ったって無理なほど、じれったくなって走り出してしまう。もうほぼ反射ですよ。前へ進もうとした途端軽くジョギングしてしまう。

ただしこれは疲れていない時

ランマニアの疲労症状が悪化した時などは、立っているのも億劫ですし、歩くのも面倒、走るなんてとんでもないほど。

だから、この「勝手に走り出すほどの調子」というのを体にしっかりと覚えさせ、この感覚がない時には練習をしない、と決めたのです。自分で「じゃあ、頑張って走るか」とか思わなくても、勝手に脚が進むくらいの状態。

非常に主観的で体感的な曖昧な感覚ですが、この感覚を大事にしてきました

そして、走り始めても「絶対に努力をしない」と決めてペースを抑えます

いや、もうペースなんてどうでもいいのです。自分の脚が勝手に動いてくれるだけ進めればそれでいい、それくらいの感覚です。

で、どういうことが起きるかというと、3日前のとても疲れていた日に同じようにジョグをした時は1km5分30秒を超えるようなペースになりました。ところが、今日だいぶ疲れが抜けて「楽だな」と感じる状態で同じように走ってみると、最高で1km4分30秒くらいまでペースが上がるのです。

心理的な努力の程度は、まったく同じです。どちらも、ペースを上げようとか、ちょっと頑張ろうとか、いっさい力を込めていません。脚が勝手に動くままに走りました。それでも疲労度によってこれだけペースが変わってくるのです。

これ何が言いたいかというと、いかに「心理的な努力」によって我々は疲労を抑え込んでいるか、ということなんです。

これをもし、タイムとかペースを基準に考えてしまうと、例えば「今日はキロ5分切れなかったから疲れてるな」とか「今日はキロ4分30秒まで上がったから調子がいい」というような判断をしてしまいます。

なぜそれがいけないかというと、ジョギング程度のペースって、ちょっとしたことで影響を受けやすいんです

疲れていても、「なんかレースのこと考えたらペース上がっちゃった」、とか、「時計見てたらあまりに遅いんでやばいと思った」とか、「気づかない程度の下り区間だった」とか、あるいは、そもそもキロ何分なんていう表現だって1kmの平均ペースなんです。1km走るうちにリアルタイムなペース変動だってかなりあるかもしれません。

そうするとですね、「たまたま」好条件が重なってキロ5分を切れたのかもしれませんし、悪条件が重なってもキロ4分30秒だったのかもしれません。

で、ランマニア、今日走りながらふと思い出したんです。

そういや、昔「自覚的運動強度(RPE)」なんてもんがあったな、と。

かつて学生時代にランマニアは運動生理学実験に携わることがあったのですが、その時に運動強度を測る指標としてこの「自覚的運動強度」という尺度を用いていたんですね。いや、今でも健康診断などで運動負荷試験などを行う際には普通に用いられている尺度です。

そしてこれがまた、なんていうかランマニア的にはですね、ちょーいい加減な(失礼)指標に思えて仕方がなかったんです。

なんせです、変な表に「きついー15」「楽であるー11」「かなりきついー17」「非常にきついー19」なんて書いてあって、被験者に「今どこですか?」とか聞いて「いま17です」とか言わせるわけです。正直ですね、17と19の違いはあんのかよ、とツッコミ入れたくなるほど。(RPEの名誉のために言っておきますが、一応多くの人の客観的指標(心拍数や血中乳酸濃度など)と照らし合わせて妥当性も検証されています)

しかし、実はいまランマニアが取り組んでいるのは、まさにこの自覚的運動強度のような指標を用いた強度調整なんじゃないか、とふと気づいたわけです。

例えば、3日前や今日のような疲労を抜くための軽いジョグでは、「絶対に努力しない」というかなり主観的な意識を持って走りました。自覚的な運動強度というよりは、「自覚的な頑張り度」でしょうか。

もし、自覚的頑張り度なるものがあれば、今日のジョグはたぶん「0〜2」くらいです。いや限りなく0に近い。言ってみれば「出力0」です。

では先週やったインターバルトレーニングは、自分の体にかかった負荷の強さはさておき、心理的な努力度、頑張り度はたぶんMAX20のうち18くらいは出した気がします。「出力18」。

これくらいの距離を走ったから自分には負荷がこれくらいかかった、とか、これくらいのタイムで走ったからこれくらいの負荷だろう、という考え方は、トレーニング効果を規定する上ではとても大切な考え方です。こうした客観的な数値(距離、ペースなど)によって強度をコントロールして伸ばしたい持久的能力に狙いを定めることは、長距離トレーニングの本質です。

一方で、疲れている時とそうでない時とでは、同じペースでも体にかかる負担はまったく別物です。同じことをしても、疲れている時の方が遥かに体に負担がかかっています(負荷ではなく負担ですね)。

ですから、非常に主観的で曖昧な概念ですが、「自身の心理的努力度」「頑張り度」「出力」といった自覚的な感覚を用いた練習強度調整は、タイムやペースに左右されない疲労や調子のコントロール方法として、ひとまずランマニア的にはうまくいっている気がするのです。

そして思うのです。「自覚的運動強度、意外とやるね」と。

まさか都内でバーティカル?〜「東京バーティカルレース」コースを一足先に試走してきました〜

こんにちは、ランマニアです。

もうこうなったら有給取るなら今しかない、と昨日も先週に引き続き平日休みをもらって山へ行ってきました。

都内は檜原村にある大岳山

大岳山と聞いてピンときたそこのあなた、きっと関係者(?)ですね。

そうなんです。今年のスカイランニングジャパンシリーズのバーティカル部門(なんのことやらさっぱりな方は検索してみてくださいね)の第2戦目が、ここ都内の檜原村が舞台に選ばれたのです。

これは事件です。ものすごい快挙です。

なにせこのスカイランニングの舞台は、通常、群馬や長野など急峻な山々が連なる山岳地帯が選ばれることが多く、累積標高1000m弱を数kmで一気登りできる急で長い登山道のある山でなければ実現し得ないスポーツだからです。

それがまさか都内にです。

正直ランマニアは疑っていました。

昨年出走した長野県烏帽子岳のバーティカルレースのような、あのランナーの大腿四頭筋をことごとく破壊し尽くす猛烈で終わりの見えない急登なんぞ都内に存在するわけがない、と。

そしてランマニアはどうしても確かめたくなったのです。この目で見たくなったのです、「都内にあるバーティカルコース」とやらを。

結論から言いますと、

ランマニアは完全に舐めていました。(ごめんなさい)

これは正真正銘のバーティカルコースでした。

通常我々が出場するトレイルランニングレース(スカイランニングやバーティカルレースも含む)の舞台となる山のほとんどは、別の山と稜線で結ばれている「連峰」です。いまいちピンとこない方は、これと対照的な言葉の「独立峰」をイメージするとわかりやすいです。

日本で最も有名な独立峰はいうまでもなく富士山です。トレランの舞台で独立峰が選ばれることは極めて稀で、そういう意味では「富士登山競走」はかなり特殊なレースといっていいでしょう。

そんな「連峰」が舞台になるスカイランニングのコースは、ある山頂を目指す際に、2段階のセクションがあるとランマニアは考えています

連峰はその名の通り、稜線、尾根によって隣の山頂が結ばれています。ですから、山頂を目指す際には、まずはその尾根の部分、稜線を目指すことになります

で、たいがい、この稜線にとりつくまでの登りがとんでもなく急で、ここでかなり脚をやられることになります。正直、ランマニアの脚力では走り続けることができず、終盤は「歩き」専門になります。

そして、稜線に近づけば近づくほど勾配はどんどん急峻になり、ランナーを激しく苦しめます。

さて、そうやってようやく稜線に辿り着き、しばらく穏やかな尾根道を軽快に走れるわけですが、そんな時間はそう長くは続きません

最後のピークを目指す急登にとりつくからです。

スカイランニングやバーティカルレースでは、最も急な登り坂(いや壁ですね)が最後に待ち受けているのです。

どれほど急かといいますと、足だけでは登ることができず、両手を使ってよじ登らなければ先に進めないほどの急坂です(だから壁なんです)。下手をすると累積で100mとか200mとかこれが続くこともあります。稜線までの登りで、たいがい脚は終わっている中で、です。

この2つのセクションをいかにして攻略するか。これがスカイランニングのポイントだと思っています。(スカイレースの場合は下りもポイントになりますが)

で、こんな過酷さを絵に描いたようなコースが、都内にもあったのですよ。

このバーティカルレースの舞台となる大岳山への登山道は、古来から使われてきた非常にクラシカルで伝統的な参拝登山道です。ですが今ではほとんど使われなくなってほぼ「古道」と化した忘れ去られた存在だったようです。

なぜそうなったのか。

走ってみればわかります。めちゃくちゃきついからです

この大岳山は、登山ガイドを見るとほとんどは「途中までは御岳ロープウェイを使ってね」と快適な登山道を推奨しています。こっちの元来の参拝道を勧めているサイトはほとんど見当たりません。それほど「きつい」ということです。

そして、先ほどから書いているスカイランニングの典型的なコース設定が忠実になされている、いわば「最短距離で山頂に到達する快速登山を具現化したものとなっています。

最短距離だからこそ「きつい」のです

さて、実際の登山道は、参拝登山道らしく鳥居をくぐると、そこからいきなり全開で始まります。はじめはやや勾配が緩めなものの、少し走ると急な斜面をつづら折りで登り続けることになります。この区間が非常に長く、ランマニアは途中から歩きました。

これくらいの勾配が延々と続きます。

登っても登っても終わりは見えず、いつまで続くのかと気持ちが折れそうになった頃に、ようやく稜線に辿り着きます。

ここで稜線に出会います。ここを左に向かい、しばらくは尾根道を快適に走れます。

ここから約1.6kmは唯一快適に走れる尾根道区間です。ここで力をためて、最後の急登に挑む準備をします。

そして2回目の鳥居をくぐったところから、いよいよ本格的な岩場が始まります。ただし、長野のレースで多く見られるピークまでの岩場ほどは長くはないので、もうここから最後の力を振り絞ってスパートをかけても問題ないでしょう。

はい、最後はお決まりの岩登り。もはや「ランニング」ではないですね。

山頂は思いのほか広く、富士山までを一望できます。晴れていれば絶景ですね。

さすが東京都。百名山でもないのにこの立派な石碑。

そんな、都内にあった奇跡のバーティカルコースは来たる6月6日にレースの舞台となります。日本スカイランニング協会公認のジャパンシリーズ公式戦です。

これは盛り上がりますよ。

「頑張り」の正体は「電気」なんじゃないか、と

こんにちは、今日もぼっち練のランマニアです。

実は今日も山へ行ってしまったのですよ、山へ。

山は空気が綺麗だし(ウィルスもいない)空も青いし、今日は春みたいだしで、まあとにかく控えめに言って「最高」でした。

山の話は次回に回すとして、実は昨日の段階で今日どうなるかはちょっと微妙な状態でした。

昨日はあえて大袈裟には書きませんでしたが、ここ数週間では最も疲労症状が悪化していて、これは長期休養が必要なパターンかな、と若干凹んでいたのでした。

ところが今朝起きると、昨日のダルさが嘘のように体がすっきりと軽くなり、だいぶリセットされた感覚が得られました。

こういうのは、本当に感覚的なものなので正直判断は難しいのですが、ランマニアが長年付き合ってきた疲労感へのセンサーはだいぶ正確になってきていて、「これはダメそう」「これは平気」という判断をわりと的確に出せるようになってきました

で、今日は大丈夫だろう、と。

大丈夫になった要因もある程度押さえていて、それは多分昨日、一昨日の練習によるものだと推測しています。

ランマニアがいつも「疲労」「疲労」と言っているのは、自分の中では「筋の疲労」ではなく「神経系の疲労」のことです。

疲労自体がまだまだ解明されていないことだらけなので、自分自身の仮説や推測もあやふやなんですが、体感的には筋疲労というよりは、そこへ情報を送っている神経系がうまく働かなくなっている感覚があるのです。

みなさんも、実験か何かでカエルやマウスの脚の筋肉に電気刺激を送ると、死んでいる状態でも脚が電気の入力によって勝手に動くのを見たことがあると思います。

人間の筋収縮も基本的には同じ原理で、筋につながっている神経系が電気的に興奮して神経伝達物質を筋に送り込むことで筋が収縮するようになっています。

で、この電気信号のそもそもの始まりは脳からで、我々は脳で脚を「動かそう」と「意識する」ことで筋が収縮して走り出すことができるのです。そしてこの「意識」の強さが「頑張り」とか「心的な努力」の正体なわけです。

つまり、「頑張り」は「電気の強さ」とも言い換えることができます。

筋そのものが疲れてくると、脳からは「もっと頑張れ」とたくさんの電気的な信号を神経を通じて筋繊維に送り込んで動かそうとします。そうすると、だんだんと神経細胞そのものも疲労(酸化)してくるという仮説があります。そして、ランマニアの疲労は実はこの神経系の疲労なのではないか、という仮説に、今のところ行きついているわけです。

で、なんだか前置きがめちゃくちゃ長くなってしまいましたが、そういう前提があるので、昨日、一昨日は、ランマニアは意識してこの「電気の強さ」を極力弱めて走ってみたのです。

人間は、半ば反射的に歩いたり、走ったりする動きができる生き物です。

ですから、特に疲れてなければ意識しなくても勝手に歩けますし、我々ランナーのように筋力がある人ならば、勝手に脚が動いているんじゃないかと思うほどほど楽に走れてしまいます。

昨日、一昨日のランマニアも、特に「頑張ら」なくても動くくらいのペースに抑えて練習をしました。もうタイムなど気にしません。脚が勝手に動くだけのペースです。

そりゃあもうとんでもない遅いペースです。キロ6分とか5分半とか。

でも、正直ペースなんてどうでもいいのです。とにかく電気信号を控えめにして神経を休ませたかったのですから。

ランマニアは経験的に「この頑張りはやばい頑張り」というのが自分の中では大体わかっていて、それは「疲れているのに無理してペースを維持している頑張り」です。

この2日間は、そのゾーンに入らないよう、常に気持ちをコントロールしていました。

おそらくそれが今日の回復につながったものと考えています。

まあでも、この理屈はすべて推測と体感的なものです。本当は違うかもしれません。しかし、正直だれもこの疲労感の正体を目で見ることはできないのであれば、自分の感覚でコントロールするしかないわけで、それを解明されている事実と自身の知識とで解釈するしかいんだろうな、と。

結果、今日は体も回復して山へ行けました。

ひとまず、「電気の出力」をコントロールした結果と捉えておくことにします。

一人でやる良さと集団でやる良さ

こんにちは、ランマニアです。

先週末のインターバル練習は、いつもぼっち練がデフォルトのランマニアにとっては久々の集団走だったわけですね。

学生時代までは、基本「部活」ですから、むしろ集団で走る方が普通で、一人で練習というのをいわゆる「自主練」とか言っていたわけです。

アマチュアスポーツは本来「自主的に」行うわけなので、「自主練」なる言葉があること自体おかしな話ですが、社会人になってからは365日全てがいわゆる「自主練」ということになります。

何人かのラン仲間や職場の人からは、「よく一人でそんなに走れるよね」と感心されます。

ですが、ランマニアは、なんというかこの「一人」で走るのがとても好きで、これまであまり苦に感じたことはなかったのですが、周囲からそう言われてみて、こうやって毎日毎日一人で走ることの、一般的感覚からする「特殊性」に、改めて気づかされたわけです。

一人で走るメリット。

これはとにかく、好きな時間に好きなだけ走れる、ということですね。集合時間に縛られることもなければ、走る距離やペースを合わせる必要はありません。「完全なる自由」。これはとにかく何ものにも勝るメリットです。

ほかには、いつでも勝手にやめられる、ということがあります。

もちろん、学生時代も調子が悪かったり足の痛みなどで、予定していた練習から離脱することはよくありました。

ですが、そういう時は、なんというか、自分だけ先にやめた後ろめたさや劣等感などが湧いてきて、あまりすっきりやめられないんですね。

そういう心理的な面からも一人は気楽です。無理そうならやめればいいですし、やれそうならいくらでもやればいいわけで。

これは一見、手抜きの原因になっているかのような印象を受けますが、ランマニア的には、故障やオーバーワークを防ぐ意味でもとても大切なことだと思っています。

ランマニアのように慢性疲労を抱えていると、「やめ時」は自分でないとなかなかわかりません。周囲から見ると、「気持ちが弱い」と思われそうなタイミングでやめることも多々ありますが、これは自分にしかわからない感覚で、そこでやめておかないと後々大変なことになるのです。

一方、集団で走る方のメリットももちろんあります。

例えば、先週で言うと、普通ならできないようなペースで走れてしまう(ペースメイクを他の人に委ねることができる)。普通ならやれない本数をこなせてしまう(競争心や意地みたいなものが原動力になる)。そんなよさもあります。

自分一人では追い込めない領域まで体に負荷をかけ、体の変化を促すには、集団走は最適です。

ただし、ランマニア的にはやはりこのダメージは少し大きいわけですね。

人間はある程度、心理的な努力で「苦痛」や「疲労」を抑え込んで走ることができます

しかし、もともと苦痛や疲労は体からの「もうやめた方がいいよ」のサインなわけですから、そこを超えてまで体を追い込むと、何かしらの障害が発生するわけです。

ランマニアでいえば、やはり疲労度は一人で行う時よりも圧倒的に高くなります。

トレーニング効果も大きいでしょうが、疲労で走れなくなる期間をトレードオフすると、どちらがいいか果たしてよくわからなくなります。

人間には闘争本能がありますから、たぶんすべてのランナーは負けたくないのです。集団で走ると、たとえ練習と言えども、闘争心に火がつきますね。手を抜こうとしても、まあ無理な話です。

さて、そんなことでちょっと疲労の状態がワンランク上がってしまった今の状態。こうなると無理はできません。

女性とマラソンを考える

こんにちは、ランマニアです。

今日3月8日は「国際女性デー」というんですね。欧州では、男性が女性にミモザをプレゼントするそうです。

それはさておき、今日は名古屋ウィメンズマラソンで、また素晴らしい記録が出ました。先週の大迫くんに勝るとも劣らない圧倒的で驚異的なレース展開。当初、びわ湖毎日マラソンをみていたランマニアも、途中から名古屋にチャンネルを変え、一山さんに釘付けでしたよ。

女性とマラソンを考える時、わたしは以前から日本人ランナーの過度な節制について問題を感じていました。

女性はもともと男性よりも脂肪が付きやすく、男性に比べるとどうしても「痩せる」ことへ意識が向きやすいと考えられます。

こうした意識が自己の歪んだボディイメージを誘発し、マラソンは、忍耐や我慢を強いられる競技特性と相まって、摂食障害などの重篤な精神疾患と親和性の高いスポーツであるとランマニアは考えます。

実はランマニアの身近な人でも、長年摂食障害に苦しみ、そこから立ち直って全国で活躍し続けている女性市民ランナーがいます。

また、つい去年あたりも、摂食障害に陥って苦しみ続けている女性ランナーのことがメディアで話題になりました。

ランナーに限らず、摂食障害を患っている方は体型を見るとだいたい一目でそれと判断できます。痩せ方が異常だからです。

そうした意味では、今日の一山さんはしっかりと肉付きもよく、健康的に体が絞れている印象を受け、安心したところです。

本来マラソンのような過酷なスポーツは、まず体が健康でなければできないスポーツです。何よりも、第一に健康が最優先だと考えています。

本来そのように健康でなければできないようなスポーツで、そこを害してまでパフォーマンスを向上させようとするのは、むしろ逆にパフォーマンスを制限していることだと、冷静になれば誰にでもわかることだと思います。

マラソンは、生理学の仕組みや栄養、エネルギー代謝など、極めて科学的な理論によって説明できる理詰めなスポーツです。我慢強さや忍耐力も確かに必要ですが、それはあくまでまずは健康と科学を重視した上での取り組みです。

走るには、様々な栄養素が必要です。糖質はもちろん、タンパク質も、そして脂質でさえもエネルギーとして利用されます。そうした知識があれば、たくさん練習するにはたくさん食べる必要があるし、たくさん練習した後はたくさん食べなければならないことは、誰にでもわかる事実です。

今日の一山さんはたくさん食べるみたいです。

食べるものをカロリーだけで考えるのではなく、その内訳、栄養素で考えましょう

糖質、脂質、タンパク質、全てが走るためにひつようなエネルギー源になります。

「太るー痩せる」理論で考えるのではなく、走るために何が必要になるかという観点で、ランマニアは毎日好きなものをたくさん食べていますよ。

練習がスイッチを入れ、休養が効果を発現させる

こんにちは、ランマニアです。

いやー、今朝は久々にしんどかった。

高校生と一緒にインターバルトレーニングをやったのですよ。しかも1000mを5本とかいう、数日前から憂鬱なやつを。

この練習は主に最大酸素摂取量を向上させるためのトレーニングで、ダニエルズさんの換算式で算出すると、ランマニアは1km3分15秒弱くらいのペースで行うことが望ましいとされています。

ただし、ランマニアの場合は慢性疲労症候群がありますので、レースの結果はその分差し引かれて、若干身体能力をすべて出し切れていない感覚があります。

ですので、ダニエルズさんのVDOTよりも若干速めのペース設定で練習を行うようにしています。

なので、今日のような1000mのインターバルは3分10秒を目安にしています。

で、今日の高校生や集まった仲間たちは、ちょうどそれくらいのペースで集団を形成してくれましたので大変ありがたく、ランマニア的には非常に好都合な状況でした。

結果、5本の内訳は、3分13秒、09秒、11秒、10秒、09秒という、ほぼ設定どおりに行えて、これはもう今日のメンバーに感謝です。

さて、これだけの練習をこなすと、やはり疲れも尋常じゃないんですね。もう午後はぐったり。昨日は戦闘モードで疲れを感じない、なんて言いましたが、そんなことはなく、もう家でゴロゴロするしかないほどですよ、本当に。

さあ、大切なのは明日以降です。

自分の感覚ですと、今日のダメージはかなり大きいと考えています。

高校生たちと張り合ってますから、普段なら簡単にやめてしまうようなキツさでも、心理的にカバーして人間の脳が持っているもともとも防御機構「もうやめた方がいいよ」を抑え込んで走ってしまいました。

これをやった時は、自分が思っている以上に体へのダメージが大きく、このあと数日どっと疲れが来ることが予想されます。

もう一度言いますが(というか自分に言い聞かせますが)、本当に重要なのはここからです

トレーニングを積んで、その効果が現れるのは「休んでいる時」です。

トレーニングは体を変える「スイッチ」を入れる作業

休養は、スイッチが入った体を「変える」作業

です。

つまり、トレーニングは常に「休養」とセットだということです。

体は休んでいる時にダメージが修復されながら組織が再構成され新しい体が出来上がっていきます

そして、人間の体(というか生命体)がすごいのは、そうしたダメージを受けると、それを修復して再び回復すると、それまでの能力よりもさらに高い能力が身について再生される特性があります。

これを超回復と言ったりします。

ちょうど、木の枝を刈り取ると、その場所から非常にたくさんの若い芽が生えてきて木が若返るのに似ているでしょうか。

人間の体も、現在の持っている体がダメージを受けると、その再生の過程で能力が高まるような回復を見せることがわかっています。

ですから、この回復の過程をしっかり作ることがトレーニングをする上で非常に重要だと考えています。

なのでランマニアは、今日のような体に大きな負荷のかかる練習をした時は、最近はしっかり休むようにしています。

知り合いの中には、こういう練習の翌日に30kmとか40kmとかを走ってさらに負荷をかける人もいますが、正直わたしにはそれは無理ですし効果も見込めないと思っています。

今のランマニアの体は、体がダメージを受けてその損傷をせっかく修復している最中ですので、ここで追い討ちをかけるようにさらに損傷を加えてしまうと、その回復分を帳消しにしてしまう印象を持っています。

こうした、負荷をかける→回復させる、のサイクルを出来るだけ長く続け、体が大きな変化を起こして、私たちランナーにとって重要な「走力が高まる」現象が現れるのは、だいたい6週間程度とダニエルズさんは言っています。約ひと月半というところでしょうか。

ランマニアは2月中旬から2週間ほど、ふくらはぎの状態を回復させるため、一時的にポイント練をやめていました。

ですから、3月から6週間というと、ちょうど4月の半ば頃になりますね。

本当はこの時期にレースを入れて走力の高まりを確認したいところですが、このコロナ騒ぎでどうなるかわからないところが辛いところです。

ただ、いまはそれなりに手応えを感じているところなので、ひとまず怪我に注意しながらこのサイクルを維持していこうと考えています。